「生きるとは、限界を超えていくこと」 戦後80年に「加藤登紀子」が思い返す実母の言葉 同じ時期に日本へ引き揚げた“名優”との不思議な縁
今年は「昭和100年」にして「戦後80年」。歌手・加藤登紀子さん(81)にとっては「歌手生活60周年」のメモリアルイヤーでもある。3月から始まった60周年記念コンサートツアーはいまも続く。往年のファンからは「お登紀さん」、若い世代からは「トッコさん」の愛称で呼ばれ、親しまれている。ツアーと並行して5月21日にはニューアルバム「for peace」が発売。元気に、そして精力的に歌い続ける加藤さんに話を聞いた。(全2回の第1回)
戦後80年の意味
まずは「戦後80年」となる今年、お登紀さんは何を思うのだろう。
「特に若い人たちに伝えたいのは、“戦後”とは言うけれど、日本がなぜあの戦争を始めたのか、そしてもっと早く戦争を終わらせる方法はなかったのか、これまでの歴史をしっかりと見つめて欲しいですね。それも戦争の終わった昭和20年以降ではなく、昭和の初めからていねいに歴史を振り返ると、色々なことが見えてくるはずです」
1943(昭和18)年、満州(現中国東北部)のハルビンで生まれた加藤さんは、1歳8カ月で終戦を迎え、家族と共に長崎県の佐世保港に引き揚げた時は3歳になっていた。加藤さんはあまり当時の出来事を記憶していないそうだが、母・淑子さんはよくこう語っていたという。
「よく“これが私の限界”、というのはウソ。限界とは死ぬこと。生きるとは、限界を超えていくことなのよ」
「内地へ帰りたい」という大勢の日本人で大混乱の中、まだ幼い子どもたちを連れ、文字通り、必死の思いで日本に戻って来た体験から出た言葉ではないだろうか。
「でも、母は私にハルビンの生活で良かった思い出しか話しませんでした。そして“生きていることは奇跡のようなもの。生きているだけで素晴らしいのよ”が口ぐせで……。私も80歳を過ぎて、この言葉は改めて身に染みてきますね」
加藤さんの引き揚げと同じ時期、同じ佐世保港に新京(現・長春)からの引き揚げ船が着いた。この船に乗っていたのが、NHKアナウンサーとして新京放送局に勤務していた故・森繁久彌さんである。
「船は違うけど、100万人もの引き揚げ者の中で一緒だったなんて……そこから縁が始まっていたのかしらね」
アルバム「for peace」にも収められている「知床旅情」。この曲は1960年、民謡の「さらばラウスよ」に森繁さんが歌詞を加えたもので、65年にレコード化。それを加藤さんが70年にカバーし、大ヒットした。今年は原曲発表から65年。また歌の舞台になった知床が世界自然遺産に登録されてから20周年という、これまた節目の年でもある。
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