ビル・ロビンソンvsアントニオ猪木「伝説の一戦」の知られざる裏側 「イノキの後ろにゴッチがいたから負けたくなかった」(小林信也)
名勝負1位
蔵前国技館には超満員の観衆が詰めかけていた。
60分3本勝負の1本目は見事な技の応酬。レスリングの源流の一つ「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」(CACC)と呼ば れるランカシャースタイルを10代半ばからたたき込まれ、アメリカ流のショー的プロレスとは一線を画すロビンソンが真骨頂を発揮した。ゴッチに仕込まれた猪木もまた、正統派のプロレスを存分に体現した。
40分過ぎ、試合は急に動いた。ロビンソンが逆さ押さえ込みでスリーカウントを奪い先制したのだ。このままでは王座を奪われる。刻々と60分が迫る。敗北の危機感が強まる中、猪木の卍固めが決まったのは試合終了わずか2分前だった。固唾(かたず)をのむ観衆。ロビンソンは残り48秒でギブアップ。3本目は開始後すぐ時間切れ、タイトルは移動しなかった。この試合は75年の「プロレス大賞ベストバウト」を受賞。新日本プロレス創立30周年記念ファン投票で「名勝負1位」にも選ばれている。
カール・ゴッチに雪辱
ロビンソンは、38年、イギリスのマンチェスターで生まれた。プロボクサーの父に憧れ、12歳でボクシングを始めるが、13歳の時、目にケガを負い断念。プロレスラーだった叔父の勧めで、CACCの名門で知られるビリー・ライレー・ジムに15歳で入門した。
ここは“スネークピット(蛇の穴)”と異名を取り、若き日のゴッチが体験に訪ねた時、わずか1分で師範代にサブミッション(関節技)を決められ、入門を決意したというジムだ。蛇の穴は、言うまでもなく人気漫画「タイガーマスク」で有名になった“虎の穴”のヒントだろう。
「ロビンソン先生がスネークピットに入門してまもなく、スパーリングした相手がゴッチさんでした」
と教えてくれたのは、宮戸優光だ。宮戸はUWFインターナショナルの元プロレスラー。92年からロビンソンの指導を受け、99年に彼をヘッドコーチに招いて東京・高円寺でCACC道場を開設。20年以上にわたって共に過ごした人物だ。
ロビンソンは蛇の穴に入門して半年後、ある公開スパーリングでゴッチの相手に指名された。ゴッチは20代後半。実力の差は歴然だった。自伝にこうある。
〈私はとにかくゴッチにメチャクチャにやられまくっていた。叩きつけられ、押し潰され、極められ……。(中略)言葉にすることもできないほどの“屈辱”だった〉
その雪辱を果たしたのは日本においてだった。
リングでは幾度か対戦し、いずれも時間切れ引分け。だがそれ以前に、15歳のあの日以来の二人だけのスパーリングが、ゴッチの誘いで日本プロレスの道場で実現した。69年の出来事だから、16年目の再戦。
ロビンソンは約20分間、ゴッチをコントロールし続け、一度のテークダウンも、バックも許さなかった。日本のファンはゴッチを神様だと信じているが、本当の神様が誰か、ロビンソン自身が確信した、知られざる真剣勝負だった。
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