【べらぼう】染谷将太演じる「喜多川歌麿」 最下層の過酷な半生はどこまでが史実なのか
花鳥画からはじまって美人大首絵へ
吉原のイベント「玉菊燈籠」に取材し、天明3年(1783)に刊行された『燈籠番附 青楼夜のにしき』から、歌麿は蔦重と同じ「喜多川」の姓を名乗るようになる。「喜多川歌麿」の誕生である。続いて、空前の狂歌ブームに乗って、蔦重が次々と刊行した絵入りの狂歌本に花鳥画を描いた。天明6年(1786)以降、およそ5年にわたり、『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥狂歌合』など、蔦重が刊行した狂歌本に描き続けた。
そこに描かれた江戸や近郊の風景はもちろん、小動物や昆虫、植物などの繊細でリアリティに富んだ描写には、いま見てもハッとさせられる。歌麿は蔦重のプロデュースで、まずは花鳥画の画家として評判を高めたのだ。
その後、寛政2年(1790)以降に描きはじめたのが、『婦女人相十品』や『婦人相学十躰』など、歌麿のイメージといえばこれだという、いわゆる「美人大首絵」だった。写実性あふれる画風で、生々しく、心理まで描き出していると評判になった。それらもほとんど、蔦重との連携のもとに誕生したのである。
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