【べらぼう】染谷将太演じる「喜多川歌麿」 最下層の過酷な半生はどこまでが史実なのか

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出生地も親も兄弟もわからない

 歴史上の歌麿については、じつはわかっていることが非常に少ない。姓は北川、俗名は市太郎、のちに勇助だが、出自はわからない。出生地については江戸や川越(埼玉県川越市)のほか、京都や大坂、近江(滋賀県)など諸説あるが、現在は江戸説が有力だ。また、親や兄弟についてもなにもわかっていない。生年に関しては、文化3年(1806)に数え54歳で没したところから逆算して、宝暦3年(1753)が有力視されているが、確定しているわけではない。

「べらぼう」では、明和9年(1772)の大火のとき、まだ子供だったが、宝暦3年生まれであれば、このときすでに数え20歳だったことになる。「べらぼう」は生年をもっと後に設定しているということだろうか。

 歌麿の前半生についてはっきりしているのは、幼少期に鳥山石燕に弟子入りしたことくらいだ。石燕は狩野派の門人だが、幕府や大名の御用絵師にならなかった町狩野(在野の狩野派)で、とりわけ『画図百鬼夜行』などに描かれた妖怪の絵でその名が知られるようになり、彼の妖怪画は後世に大きな影響をあたえた。水木しげるも石燕の影響を大きく受け、日本人がイメージする妖怪は、ほぼ石燕に端を発するといっても過言ではない。

 いずれにせよ、歌麿についてはわかっていることがほとんどないため、石燕と出会った逸話を入れ込んで、半生のストーリーを脚本家が創作したものと思われる。だから、歌麿の生い立ちがこのように悲惨だった、と信じてしまうとしたら危険だが、この生い立ちは、当時の江戸の下層社会の状況をよく描いてはいる。

蔦重が依頼した仕事で歌麿を名乗る

 石燕のもとでは、歌麿のほかに恋川春町や栄松斎長喜、歌川豊春らも学んだ。こういう門人たちからも刺激を受けながら画業を習得したことは、想像にかたくない。

 最初は石燕から「石」の字をもらって「石要」と名乗り、この名で明和7年(1770)、絵入り歳旦帳『ちよのはる』の挿絵1点を描いている。その後、安永4年(1775)に、「北川豊章」の名で、富本浄瑠璃正本の『四十八手恋所訳』の下巻の表紙絵を描いたのが、浮世絵師としての本格的なデビューとなった。

 天明元年(1781)に刊行された志水燕十の黄表紙『身貌大通神略縁起』の挿絵には「画工歌麿」の署名があり、このころから「歌麿」を名乗ったようだ。むろん、版元は蔦屋重三郎で、蔦重がはじめて歌麿に仕事を依頼したのがこの本だった。現在、『べらぼう』で描かれているのが安永9年(1780)で、蔦重は翌年の正月に刊行する本の準備を進めている。ここでドラマの歌麿と史実の歌麿が一致する。

 歌麿はあたらしい画号を名乗るに際して、上野の料亭に披露のための宴席をもうけている。そこには北尾重政や勝川春章ら同業者のほか、大田南畝や朱楽菅江、恋川春町、朋誠堂喜三二といった狂歌師や戯作者等々、錚々たる文化人たちが呼ばれている。この時点ではまだ無名の歌麿が、これだけの面子を集められるとは考えにくく、蔦重が会を仕切っていたと思われる。

 この時期、蔦重は業容を大きく拡大しようとしていたが、大物絵師はすでにほかの地本問屋とつながっていることが多かった。そこで、まだ無名の絵師に歌麿を名乗らせ、スター絵師に育て上げようとしたのだろう。

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