40年前に「逃避行」スキャンダルも揺らがず SNS時代に70歳・高橋惠子「今を生きる」ブレない矜持
中学卒業後すぐに女優へ
女優の高橋惠子(70)は1970年、15歳のときに映画「高校生ブルース」で主演デビューした。以降、同年公開の「おさな妻」、1971年の「遊び」など1年半に7本もの作品に出演する超多忙な日々を送った。(全4回の第2回)
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【写真】幼少期、10代、20代、30代の高橋惠子。貴重な妊婦ショットも
「わたしは中学を卒業してすぐに女優になりました。高校は通信教育を受けるから行かないと決め、女優をやろうと決めたんです。3年経って駄目だったら普通の生活に戻ろうと思っていましたけど、毎日が真剣勝負。デビュー前は演技の特訓を3カ月、体操や日舞、茶道までマンツーマンで指導を受けたのを覚えています。監督から言われたことに、いかに応えられるか必死でしたね」
そう振り返る高橋は当時、盆暮れ正月の休みもなく、1年間に休みはたったの3日程度。70年代デビューのピンク・レディーが毎日3時間寝られればいい方で、年末になると睡眠時間は45分から1時間以下になることもあったことで物議を醸したが、高橋も負けず劣らずのエピソードがあった。
「大映のスチールカメラマンの方からスカウトされたので、マネジャーもないまま、大映専属で売り出してもらいました。皆さん本当に映画を愛していて、わたしを娘や妹のように可愛がってくださり、プロ意識のある人たちと一緒に仕事できたのはすごく財産になりました。
朝、家を出て、撮影が夜には終わった後も、ロケであっても、そのあとに都心まで車に乗せられて、宣伝部の方が設定する取材が毎日ありました。水着の撮影とかグラビアにも色々出ましたし、新聞社まわりもしましたね。
大映は当初、『秘密兵器』とか『秘蔵っ子』と言って、記者の方にも会わせない売り出し方をしてくれました。まだ思春期という年代でしたから、こんな毎日を過ごしていていいのだろうか、人間的に偏っているのではないかという思いはありました。ですが、やる気満々でしたから、つらいとは思わなかった。ただ、家に着いて、そのまま玄関で寝てしまったことはありましたね」
それほど疲労困憊になるまで追い込まれていたのだろう。
「内向的な性格で、身体もちょっと病弱なくらいな感じでしたけど、おかげで明るく元気になりました。いろいろ経験を積むというのは、やっぱりとても貴重なもので、生まれて来て死ぬまでの間に、どれだけどんな経験ができるか。
そして、どのようなものでも、どこかで、自分で選んでいるのだとも思います。人は、魂を磨くために生まれてきていると思っているので。もちろん15歳くらいの時はこんなことまで思っていませんでしたけど」
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