「脱走常習の甘ちゃん」から「優勝させたい力士」の筆頭へ…「高安」35歳を突き動かす恩義・感謝・大声援【令和の名力士たち】
師匠が突然亡くなるという不幸
部屋の厳しい稽古に耐えて、新十両に昇進したのは、20歳。平成22年九州場所のことだった。
「平成生まれ、最初の関取」とメディアでも話題になったのだが、このタイミングで師匠から、四股名を改名することを勧められたという。稀勢の里も十両昇進のタイミングで、本名の萩原から改名している。
「高安という姓は、かなり珍しい苗字で、『全国の高安姓の人たちの象徴となって、この姓を知ってもらいたい』という父の思いがあったこともあって、師匠には本名で取ることを許していただきました」
十両を3場所で通過し、23年名古屋場所で新入幕を果たした高安。ところが、この年の11月、九州場所を目前にして、信頼を寄せていた師匠が突然亡くなるという不幸に襲われる。
「入門して7年。『甘ちゃん』だった自分を叱ることもなく、温かく見守ってくれていた師匠に、何も恩返しすることができなかった。師匠の恩義に報わなければ……」
こう心に誓った高安だったのだが、その後の成績は一進一退で、三役に定着したのは28年名古屋場所からだった。
大関昇進で湧いてきた師匠への感謝
そして、平成29年初場所から、11勝、12勝、11勝と3場所合計34勝を挙げて大関昇進を決める。
「大関の名に恥じぬよう、正々堂々精進します」
大関昇進伝達式で、高安が述べた口上である。この時、彼の脳裏をよぎったのは、亡き師匠の顔だった。
「師匠が入門を許してくださったから、今の自分がいる。『右も左もわからなかった15歳の自分が、今、大関に昇進して、師匠は天国からどんなふうに見てくれているのだろうか?』と思ったんですね。感謝の気持ちが湧いてきました」
ところが、大関昇進後は2場所目に途中休場。翌場所のカド番はクリアしたものの、翌30年夏場所は全休するなど、令和2年初場所、15場所務めた大関の座から陥落してしまう。
コロナ禍での苦悩を乗り越えて、4年春場所では12勝を挙げて関脇・若隆景と優勝決定戦を争うなど、復活。11月の九州場所でも大関・貴景勝、平幕・阿炎との優勝決定戦巴戦に臨むなど、かつての強さが蘇ってきた。
理想は相手を組み止めて寄っていく相撲
高安には、突き、押し、寄り、上手ひねりなど、数多くの得意技がある。本当の得意技は果たして何なのか。
「何でもできると言えばできるのかもしれないけれど(笑)、理想は相手を組み止めて寄っていく相撲でしょうか? 一番安定して勝てるスタイルだと思っています」
と語る高安。
春場所では突きを主体とした激しい相撲も多く、ファンを魅了したのだが、優勝決定戦での大声援をどう捉えていたのかを聞いてみた。
「地鳴りのように響く声援は、初めての経験でしたし、それに応えたいという気持ちは強かったけれど、(大の里の)圧力に負けてしまいました。あの時の本当に悔しい気持ちを忘れずに、夏場所に向けて体を作っていきたい。また、優勝を目指していきますよ!」
入門から20年。
35歳の挑戦は、続いていく。
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