「脱走常習の甘ちゃん」から「優勝させたい力士」の筆頭へ…「高安」35歳を突き動かす恩義・感謝・大声援【令和の名力士たち】

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強烈だった稀勢の里の言葉

 日本人の父と、フィリピン人の母の間に生を受けた高安は、茨城県土浦市で育った。

 子どもの頃からの夢は、プロ野球選手になることで、地元のリトルリーグに所属していて土浦一中では野球部に入部。その頃にはすでに体が人一倍大きくなっていたので、ポジションはキャッチャーかファーストだった。高校進学を考えていた高安に相撲の世界を勧めたのは、中学校の担任の先生。

「この時、自分の進路の中に『大相撲の力士』という選択肢はありませんでした。テレビで相撲を観たことはほとんどなかったし、力士で知っていたのは朝青龍関くらい。ですが、この話に乗り気だった父が、当時、千葉県松戸市にあった鳴戸部屋に連絡して、部屋を見学しに行くことになったんです」

 当初は「見学」だけのはずが、師匠(元横綱・隆の里)の自宅に招かれた高安は特上鮨をご馳走になり、180センチ、120キロの体を誉められたことで、心が動いたという。ただ、それ以上に彼の「やる気」に火をつけたのが、直前の場所(平成16年九州場所)で新入幕を果たした鳴戸部屋所属の稀勢の里(現・二所ノ関親方)についての話だった。

「師匠はおっしゃるんです。『稀勢の里は強くなって、親にマンションを買ってあげたんだよ。君も強くなれば、親孝行ができる』。この言葉は強烈でしたね。自分の身ひとつでお金を稼げる仕事への憧れがありましたし、プロ野球選手ではないけれど、大相撲も『プロ』の世界ですから……」

すべてにおいて「甘ちゃん」だった

 こうして、平成17年3月、15歳で鳴戸部屋に入門した高安だったが、相撲の経験がまったくなかったこともあって、基本の「き」から学ぶ毎日だった。

 鳴戸部屋特有の昼過ぎまでの長い稽古の後は、掃除や雑用が続いて、自分の時間がないうえに、集団生活そのものが苦手だった高安。入門1年目はそうした日々に耐えられず、部屋を脱走して実家に逃げ帰ったことが何度もあった。

「すべてにおいて『甘ちゃん』でしたね(笑)。だから、本場所の成績もパッとしなかったのですが、入門2年目の時、父が重い病気にかかってしまい、目が覚めたんです。『脱走』を卒業した3年目には三段目に上がって、相撲部屋での生活にも慣れてきました」

 こう振り返る高安は、頭を掻く。

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