「三島由紀夫が心を開き信頼していた」 檄文を託されたジャーナリスト・徳岡孝夫さんの“人間性” 「初めての取材時から遠慮なく質問」
温かい人間性
85年、55歳で社を離れ、ジャーナリストとして新潮社の「新潮45」や「フォーサイト」などで健筆をふるう。
新潮社の担当編集者は言う。
「言論の自由には責任が伴い自由の乱用は許されないと、自らの記事に厳しい。揚げ足を取る事なく正攻法で迎合もしない。文学、古典、伝統文化にも精通し、分厚い教養に支えられていた。そして最大の魅力は温かい人間性でした。柔らかい大阪弁まじりのユーモアあふれる口調でした。例えばフルブライト留学生の当時を思い出し、“日本の国家予算が1兆円で、その時アメリカのペット産業の規模が1兆円だった、ハッハッハ”と話す。視点や切り口が現実的で独創的でした」
説くよりも、問いかける
説くよりも問いかけるような文章で、読者をハッとさせた。ジャーナリストは思想ではなく、事実を守るものだと実践していた。
ベトナム戦争終結を現場で取材した経験から、現地の人々が逃げ出しているのに日本で“解放”と報じる姿勢は欺瞞(ぎまん)ではないか、と語るのは、ほんの一例だ。
正義や奇麗事を疑い、世の中で謝れ謝れ、もう謝ったじゃないかというけんかほど不毛なものはない、などと国際問題では政治家、官僚の空疎な言動を指摘した。
90歳を過ぎても執筆活動
50代半ばで右眼を失明、左眼の視力も極端に落ちた。
横浜の老舗料亭「隣花苑」で女将(おかみ)を務めていた、西郷槇子さんは言う。
「梅は咲きましたか、と電話があり、その季節にお越しになりました。徳岡さんはつえを突いておられました。“もう一本のつえ”が奥様の和子さんでした。奥様がしっかり支えておられたのです。徳岡さんは穏やかで周りに気遣いをされていました」
2000年、愛妻に先立たれる。気落ちするが息子家族に支えられ書き続けた。
「新しい動きを追っていました。物事を単純化、類型化して捉えてはいけないと自戒して、先見性を失わなかった」(前出の編集者)
90歳を過ぎても執筆、昨年も取材に応じていた。
4月12日、95歳で逝去。
「今年は三島生誕100年。徳岡さんは三島亡き後もドナルド・キーンさんと共著を発表、自身も『五衰の人』(96年)を著した。三島を回想する第一級の作品です。徳岡さんの人徳ゆえ、三島は心を開き信じたと改めて感じます」(佐藤さん)
真に深みのある人だった。
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