「三島由紀夫が心を開き信頼していた」 檄文を託されたジャーナリスト・徳岡孝夫さんの“人間性” 「初めての取材時から遠慮なく質問」

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は4月12日に亡くなった徳岡孝夫さんを取り上げる。

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三島由紀夫の信頼

 1970年、当時「サンデー毎日」の記者だった徳岡孝夫さんは、三島由紀夫から電話で指定された東京・市ヶ谷に向かった。

 事情を知らず赴いた徳岡さんは三島が主宰する「楯の会」の会員から封筒を渡される。中身は三島からの手紙と檄文、写真だった。〈傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも〉という文面に異変を覚え、自衛隊の市ヶ谷駐屯地へと急いだ。バルコニーで演説する三島の姿を見たのが最期になる。推移を見届け発表することを託されたと受け止めた徳岡さんは、それを果たした。

 三島由紀夫文学館の館長で近畿大学名誉教授の佐藤秀明さんは振り返る。

「万全を期すため、三島はもう一人の記者にも封筒を渡していましたが、彼は途中で社に帰っていた。三島は5歳年下の徳岡さんの人間性を信頼していました。文壇のいわばスーパースターの三島に初めての取材時から徳岡さんは遠慮なく質問していた。核心を突かれることは三島にとって心地がよかったのです」

「必要以上の発言はしなかった」

 1930年、大阪生まれ。京都大学で英文学を学び、毎日新聞に入社。「サンデー毎日」に異動し、67年、三島を初めて取材した。

「自宅で対面中、同じ用件で電話をしてきた他社の記者の依頼を三島が即座に断ったことから、徳岡さんは三島を健全な常識人だと感じました」(佐藤さん)

 交流は続くが距離感を保つ。そして事件に遭遇する。

「渦中の人と注目されますが、必要以上の発言は全くしなかった」(佐藤さん)

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