イチロー氏と首位打者争い 一時は打率3割7分も「抜かれることだけはわかっていた」 元ロッテ「平井光親」氏が、野球人生を語る

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ナンバーワン投手は野茂英雄

――プロで最もすごいと思った投手は誰でしたか。

 ナンバーワンは、野茂(英雄)投手ですね。実は通算打率は3割以上打っていると思うのですが、打点はゼロのはず。走者がいる場面がほとんどなくて、かなり力を抜いて投げていたと思います。それでもフォークなんかは当てるのが精いっぱいでした。あとはオープン戦で1打席だけでしたが、ヤクルトの伊藤(智仁)投手のスライダーは人生で初めて見た軌道でしたね。

――野茂投手のフォークと伊藤投手のスライダーは誰もがすごいという球種ですね。引退後はそのままロッテに残っています。

 編成部で3年間、他球団の選手のスカウティングなどを担当しました。いろんな球団と掛け合ったり、資料をつくったり。一人で動かないといけないので、今思えばこの3年間がすごくいい経験になっています。その後は、二軍の打撃コーチ補佐や、球団の地域振興アカデミーの仕事、ジュニアトーナメントに出場するチームの監督などもやらせてもらいました。

――そして、母校の愛知工業大学の監督に2017年1月に就任。

 OB会から話が出たようで、ちょうどどこか大学で監督をできたらいいなと漠然と考えていたタイミングでした。当時は(愛知大学野球連盟)2部で低迷していて、1~2年目はなかなかうまくいかなかったですね。

――就任3年目の19年春に1部昇格後すぐに優勝しています。

 他チームが我々のデータを持っていなかったことも大きかったかもしれません。

愛知工大から久々のプロ野球選手が誕生

――昨秋には愛知工大から久々にプロ野球選手も誕生しました。ヤクルトのドラフト1位・中村優斗投手は平井監督が発掘したんでしょうか。

 九州にいる高校の先輩から、「140キロを超える投手がいるぞ」という情報があって、長崎の農業高校(諫早農)で、本人は就職希望だったのですが、投球を見るとこれはプロにいける素材だと。長崎まで3回足を運んで、最終的にご両親も納得してくれました。

――ドラフト時は球速160キロ右腕と話題になりましたが、入学当初から速球は群を抜いていたのでしょうか。

 本人は155キロを目標に掲げていました。1年目の春に145キロだった球速が、秋には148キロになり、2年春に150キロを超えて、3年秋に155キロをクリアしました。

――有言実行ですね。

 彼には常々「フォークボールを覚えなさい」とアドバイスを送ってきました。最初は苦労していましたが、4年になってフォークを使えるようになり、投球の幅が広がりましたね。

――昨春には侍ジャパンにも招集されました。

 それまでプロ入りは間違いないと思っていましたが、その頃にはもしかしてドラフト1位もあるかなと思い始めていましたね。長崎に住むご両親も何度も愛知まで観戦に通われていて、1位指名されたときはホッとしました。

早く一軍に上がって勝利を

――中村投手にメッセージを。

 大卒のドラフト1位なので、やはり即戦力として期待されているはず。早く(一軍に)上がって何勝か挙げてほしいですね。トレーニングを一生懸命やってきた分、肩肘はほぼ痛めたことがないですし、それは強みだと思います。

――監督生活は今年で9年目ですが、今後の抱負を聞かせてください。

 昨年は中村を中心にレギュラーのほとんどが4年生でした。今年の春は経験不足で我慢を強いられると思いますが、それでも優勝は狙っていきます。今のチームにもプロを狙える選手が何人かいるので、野球部が60周年として活動する来年までには結果を出したいですね。

――最後に平井監督が最も影響を受けた監督を一人だけ挙げるとすれば。

 やはり無名の私をレギュラーに抜擢してくれた金田正一監督ですね。首位打者という形で恩返しできたことは本当に良かったと思っています。

前編】では、幼少期から首位打者を獲得したプロ3年目までの思い出を語っている。

平井光親(ひらい・みつちか)氏
1966年、福岡県出身。東福岡高から愛知工大に進み、ドラフト6位で89年にロッテ入団。3年目の91年に首位打者に輝いた。98年にはイチロー(オリックス)に次ぐ打率2位。通算822安打、39本塁打、294打点、打率.272を残し、2002年に引退。

八木遊(やぎ・ゆう) スポーツライター
1976年生まれ。米国で大学院を修了後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLなどの業務に携わる。現在は、MLBを中心とした野球記事、および競馬記事を執筆中。

デイリー新潮編集部

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