イチロー氏と首位打者争い 一時は打率3割7分も「抜かれることだけはわかっていた」 元ロッテ「平井光親」氏が、野球人生を語る
何かにとりつかれたような試合が続き18連敗
――近藤監督の2年目の98年は打率2位と活躍しました。
あの年は春先から好調で、確か夏前くらいまで打率首位だったはず。一時は.370以上あったと思うのですが、(首位打者を争っていた)相手があのイチロー選手ですから、最終的に抜かれることだけは分かっていました(笑)。
――好調だった要因は覚えていますか。
広野(功)打撃コーチに「明日から1番で行くぞ」と言われて。私としては出塁すればいい1番という打順で、気楽に打てたのが大きかったです。それまでは1番が小坂(誠)で、私が2番を打つことが多かったのですが、小坂は俊足だったので、2番の時は盗塁を意識しすぎてなかなか積極的に行けない部分がありました。
――1番がフィットしたんですね。98年はオールスターにも初めて出場しています。
実は7月に入ってから脇腹の肉離れをしてしまって……。でもその年は地元マリンスタジアムでの開催だったので、痛みを押して出場しました。
――そういえばその年はオールスター前にチームが18連敗を喫していますね。
あの時は本当に何かにとりつかれたような試合が続いて、大量リードしていても終わったら逆転負けといった状態でした。脇腹を痛めたのが(七夕の悲劇と呼ばれる)17連敗を喫した試合だったんです。なので、18連敗を喫した試合も、連敗を止めた試合も私は現場にいなかったんですよ。
膝を痛めて引退を決断
――1999年に山本功児監督が就任しました。
山本監督は打撃コーチ時代からの長い付き合いで、すごくお世話になった方。何とか恩返しをしたいという気持ちがありましたね。
――2000年は55試合の出場ながら.305という高打率をマークしています。
調子は良かったです。でもその頃から左膝が痛くなってしまって。オフの間にトレーニングすれば治るくらいの感覚だったのが、いざ病院に行ってみると、膝のお皿の裏の軟骨が損傷していて、01年の年明けに手術をしました。
――手術後の経過は。
それがなかなか良くならなくて、春先に何試合か出場したのですが、7月くらいに2度目の手術を受けました。それで3か月くらい、松葉づえ生活を送りましたね。脚の筋力も落ちて、正直、終わったかなという感覚もありました。
――02年が現役最後の年になりました。
その頃は足を引きずって歩くような状態で、かばっているうちに今度は右膝が痛くなってしまって、3度目の手術を受けました。私の担当スカウトでもあった醍醐猛夫二軍監督に相談をして、最終的に山本監督の「もう(これ以上苦しむのは)ええやろ」という言葉で、引退を決意しましたね。
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