打率1割5分「プロを舐めていた」24歳が首位打者に…元ロッテ「平井光親」氏インタビュー 伝説の川崎球場「内野席に客が6人しかいないこともありました」

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“陰の首位打者”と騒がれ始め打率が急降下

――3年目の1991年は川崎球場での最後の年。二軍は当時も浦和ですね。

 もう浦和(二軍)には戻らないという決意で川崎球場の近くにマンションを借りました。川崎と浦和を往復する日々は終わりにしたいと。それで、3年目のシーズン序盤は代打を中心に結果を残して、確か最初の30打席くらいまでは打率も5割近かったと思います。

――その年は松永浩美選手(オリックス)との競り合いを制して首位打者に輝きました。

 シーズン中は規定打席に足りておらず、終盤になって“陰の首位打者”と騒がれ始めました。多くの取材を受けるようになってプレッシャーが掛かったのか、10月は大不振で打率が急降下した記憶があります。

――首位打者を確定させたのはシーズンの最終盤ですね。

 そうでした。確か、ダイエーとの試合で代打に出て送りバントを決めたことで、首位打者が当確になったと思います。初回に先頭打者が出塁して、2番の横田真之さんのところで代打だったのですが、いきなり交代になってしまった横田さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。

――川崎球場で3年過ごされていますが、思い出はありますか。

 何年目かは覚えていないですが、雨上がりの試合でプレーボールと同時に内野席に6人くらいしかいなかったことがありましたね(笑)。グラウンド上の選手の方が多いぞと。最終的にはもっと来てくれましたが。

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 3年目にブレイクを果たし、川崎ラストイヤーにレギュラーを奪取した平井氏だったが、そのオフに金田監督が解任されてしまう。92年からロッテは千葉に移転。新たな本拠地でスタートを切った平井氏を待ち受けていたこととは。

後編】では、千葉移転後の苦労、バレンタイン監督と広岡GMとの確執や、あのイチロー氏との首位打者争い、自身が手塩にかけて育てたヤクルトのドラフト1位・中村優斗投手との出会いなどを記す。

平井光親(ひらい・みつちか)氏
1966年、福岡県出身。東福岡高から愛知工大に進み、ドラフト6位で89年にロッテ入団。3年目の91年に首位打者に輝いた。98年にはイチロー(オリックス)に次ぐ打率2位。通算822安打、39本塁打、294打点、打率.272を残し、2002年に引退。

八木遊(やぎ・ゆう) スポーツライター
1976年生まれ。米国で大学院を修了後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLなどの業務に携わる。現在は、MLBを中心とした野球記事、および競馬記事を執筆中。

デイリー新潮編集部

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