打率1割5分「プロを舐めていた」24歳が首位打者に…元ロッテ「平井光親」氏インタビュー 伝説の川崎球場「内野席に客が6人しかいないこともありました」

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初安打を放った日は試合中に球場へ到着

――公式戦も一軍スタートでしたか。

 そうでしたね。でも、いざ開幕するとローテーションに入るような投手の球は全く違いました。実績のある投手にとってオープン戦はあくまでも調整の場だったのかと……。初めてのナイターで球もより速く見えました。

――1年目は12試合に出場して17打数3安打(打率.176)という成績が残っています。

 春先から一軍と二軍を行ったり来たり。二軍ではよく打っていたので上げてもらえるのですが、一軍ではさっぱりという状況が続きました。

――初安打のことは鮮明に覚えていますか。

 仙台での試合ですね。当日にいきなり呼ばれて、新幹線で移動した記憶があります。宮城球場には試合中に到着し、代打で初安打を打って、2本目もすぐに出ました。これで2週間くらいは一軍でいられると思ったのですが……。

――二軍に逆戻りですか?

 今もあると思いますが、当時、親子ゲームというのがあって、昼間に二軍の試合に出て、夜に一軍の試合に出ていました。それで2本目のヒットが出た次の日に二軍の試合で死球を受けて、肩甲骨を亀裂骨折し、登録を抹消されました。痛みもありましたが練習を続けて、消化試合でもう1本ヒットを打ったと思います。

「わしの目の黒いうちはあいつを使う」

――1年目のオフに有藤通世監督から金田正一監督に交代しました。

 有藤監督は本当に怖くて、話しかけられたこともない存在でした。金田監督になってからはとにかく練習漬け。休みがなかったですね。金田監督が名前を覚えているのは主力選手くらいで、選手交代の時も「ピッチャーあれ、キャッチャーこれ」みたいな(笑)。でも金田監督がすごかったのは、二軍のほとんどの選手にチャンスをあげていて、ほぼ全員一回は一軍で使ったんじゃないですかね。

――2年目は42試合に出場して打率.145でした。

 二軍ではやはり面白いように打っていました。二軍戦で5安打という日があって、即一軍に呼ばれました。しばらく一軍でも代打などで起用されていたのですが、守りで外野フェンスに激突して、救急車で運ばれました。でもそのプレーを見た金田監督が「あんなガッツのあるヤツはいない。わしの目の黒いうちはあいつを使う」と言ってくれたようです。ただ、その年は結果を出せず、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

――2年目を終えて100打数15安打(打率.150)。焦りもあったのでは。

 当時は3年目までに結果が出なかったらクビになる選手も多かったので、かなり危機感を持っていました。金田監督の期待にも報いたい一心で、それまでにないくらいがむしゃらにバットを振り込みました。技術的には、それまで前に突っ込む癖があったのをオフに改善できたのが大きかったと思います。

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