【べらぼう】後継ぎ毒殺から源内の獄死まで 生田斗真「一橋治済」驚愕の徳川家乗っ取り

国内 社会

  • ブックマーク

強烈な「すべてを操る男」

 強烈な印象とともに、この男はいったい何者なのだ、と思った視聴者は多いのではないだろうか。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で生田斗真が演じる一橋治済のことである。4月13日に放送された第15回「死を呼ぶ手袋」では、番組の最後に不遜な表情で人形を操る姿が映し出された。

 この回では、10代将軍家治(眞島秀和)の嫡男で、将軍の後継に決まっていた数え18歳(満16歳)の家基(奥智哉)が、鷹狩の最中に倒れて急死。老中の田沼意次(渡辺謙)が毒殺したとの噂が流れたが、老中筆頭の松平武元(石坂浩二)は、日ごろ意次と反目しながらも「真の外道」はほかにいると看破。意次と武元がともに協力して真犯人を探すことになったが、今度は武元が毒殺されてしまった。

 そして、武元の部屋に何者かが忍び込んで「暗殺」する場面に重ねて、治済が人形を操る映像が重ねられたのである。これは一連の「毒殺」の黒幕が治済だと暗示していることにほかならない。

 続いて、翌週の第16回『さらば源内、見立は蓬莱(ほうらい)』(4月20日放送)では、意次に頼まれて「毒殺」の真相に近づき、さらには蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)に新作の物語を依頼され、「毒殺」のミステリーについて書きはじめていた平賀源内(安田顕)が、殺人の罪を背負わされて投獄された挙句、獄死した。その後、源内が書いた物語『死を呼ぶ手袋』の草稿が燃やされる前で、饅頭をほお張る一橋治済の姿が映し出された。いうまでもなく、すべての黒幕はこの治済だ、という描写である。

 では、一橋治済とは、どんな人物なのだろうか。結論を先に言えば、大変な策士で権謀家であったとは断言できる。

将軍職をねらって争う家柄

 ただし、あらかじめ断っておくと、家基、武元、源内が同じ安永8年(1779)に次々と死去したのは事実だが、いずれもはめられたり、殺されたりしたという証拠はない。したがって、治済が3つの死を操っているというのは、『べらぼう』の脚本家によるフィクションである。しかし、とりわけ若い家基が死去したことで、本当なら叶うはずがなかった状況が治済に訪れたことはまちがいない。

 というのも、将軍家治にはほかに男子がなかったので、治済の嫡男の豊千代を家治の養子にし、次期将軍にする――。そんなことが可能になり、実際、治済はそれを実現させてしまったのである。

 だが、どうしてそうなったか、その後、治済はどうしたのかを語る前に、この人物の来歴を記しておきたい。一橋家はいわゆる御三卿の一つで、それは8代将軍吉宗が将軍家の血筋を保つために、御三家のほかにもうけた3家を指す。吉宗の三男の宗武が家祖の田安徳川家、同じく四男の宗尹が家祖の一橋徳川家、吉宗の長男で9代将軍家重の次男、重好が家祖の清水徳川家がそれに該当した。そして一橋家は、宗尹が死去したのち、四男の治済が後を継いでいた。つまり、治済は吉宗の孫にあたる。

 御三卿はいずれも将軍の親族として高い地位にあったが、独立した大名ではなく、江戸城内に屋敷を構えて領地や家臣団をもたなかった。将軍の世継ぎの候補を出せるという特権はあったが、御三家をはじめ他家にも養子を提供するのが役目で、自家を継ぐことよりも養子先を継ぐことが優先された。そうした家の場合、将軍の座を継ぐことにこそプライオリティを置いても不思議ではない。

次ページ:すべては治済が望んだように

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。