【べらぼう】“毒手袋”でお世継ぎ死亡、白眉毛「松平武元」も…誰の仕業? 歴史はどう伝えているか
田沼意次が犯人と疑われた理由
まず、将軍の世継ぎの家基である。家治は2人の男子をもうけたが、次男の貞次郎は生後3カ月で早世したため、家基は唯一の継嗣だった。
幼いころから文武両道に長けていたと伝わる家基は、月に2回程度の鷹狩をこなすほど壮健だったが、その日、江戸近郊の新井宿(大田区の池上街道八景坂のあたり)に鷹狩にいき、東海寺(品川区北品川)で休んでいるとき、急に腹痛に襲われたという。同行していた奥医師の池原雲伯が薬を煎じて服用させたが、痛みは治まらず、江戸城西の丸に急ぎ帰った。その後、手厚い治療を受けたものの回復せず、3日後の24日に急逝した。数え18歳、満年齢では16歳にすぎなかった。
ところで、家基という名についてだが、次期将軍に就任することが事実上確定していたので、元服後に家康の「家」の字を諱にもらっていた。結果として、「家」の字をつけながら将軍になれなかった唯一の人物となった。
健康そのものだった若者が急病で倒れ、そのまま亡くなるケースは、無いとはいわないが珍しい。だから、実際に毒殺説が流れた。1つは田沼意次が犯人だという説で、家基が田沼の政治に批判だったために、なおさらそうした憶測を呼んだようだ。池原雲伯が田沼と親しかったため、田沼と結託して家基を毒殺したのではないか、とも囁かれたという。田沼の仕業だという風説は、しばらく立ち込めたようだ。
むろん、息子を将軍職に就けたいと願う一橋治済による暗殺説も流れ、治済と田沼が結託した、という説もあったようだ。
真相はいまなおわからないままである。ただ、没後半世紀以上が経ってからだが、家基には正一位太政大臣という最高の官位が追贈され、その母で家治の側室だった蓮光院(知保の方)も死後に、将軍の生母以外の女性としては異例の従三位が追贈されている。家基の死が不審視され、そのたたりが恐れられていたことは間違いない。
過労死だったと考えられている松平武元
では、松平武元はどうして死んだのか。その時期は安永8年(1779)7月25日。家基が急死して5カ月後のことで、83歳の石坂浩二が演じているからよほど老齢だったかと思うかもしれないが、数え61歳、満年齢ではちょうど60歳にすぎなかった。ただし、当時の60歳はドラマで描かれた程度に老けていたのかもしれない。
もともと8代将軍吉宗に見込まれ、延享4年(1747)に本丸の老中に就任して32年。明和元年(1764)からは15年にわたって老中首座を務めた。ちなみに、老中在職32年は最長不倒記録である。
だが、武元は死の年の安永8年(1779)、2度にわたって解職を願い出ている。まず3月末に、病気のために出仕できないので職を解いてほしいと申し入れたが、聞き入れられなかった。7月にも同様に申請して却下され、その挙句、体調が悪化して死去している。身体にとって激務が堪えたということだろうか。その死に関して、過労死という見方が一般的で、不審死あつかいする記録は見当たらない。
ただ、いずれにしても、家基の死に端を発する流れが、吉宗の孫にあたる一橋治済に利する結果になったことは間違いない。家基の三回忌法要が済んだ安永10年(1781)2月、子がいない将軍家治はだれを養子にすべきか、人選を田沼らに命じ、その結果、治済の嫡男である豊千代(のちの11代将軍家斉)に決まった。もっとも、家治の弟である清水重好には子がなく、田安徳川家の後継になるべき松平定信は、白河藩松平家に養子に出ていた。後継は豊千代に決まるしかない状況だった。
この治済、松平武元の死後、田沼が幕政を主導すると田沼家の血縁を家老に迎えるなど関係を構築しておきながら、田沼を重用した将軍家治が死去して、目論見どおりに息子の家斉が将軍になると田沼派を一掃。その後は将軍の父として、政界に隠然たる影響力を行使する。老中筆頭として実権を握った松平定信とも、しばらくすると対立。そのきっかけは、将軍家斉が父の治済に「大御所」の尊号を贈ろうとして、定信が反対したことだった。結局、定信は失脚している。
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