【べらぼう】万能の天才から男色までルネサンスの巨人と共通点 「平賀源内」はなぜ獄死したのか

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後悔と自責から絶食して死んだ?

 安永8年(1779)11月20日、源内は奉行所に出頭し、酒の上の過ちによって人を切り殺したと申し立て、その日のうちに伝馬町の獄に入れられた。なにが起きたのかについては諸説ある。

 源内の有名な肖像画を描いた木村黙老の『聞まゝの記』によれば、さる大名の邸宅の修理普請の請負に関して、源内はある町人と争ったが、和議が成立し、源内宅で仲直りの酒宴が開かれ、飲み明かした。だが、明け方に気づくと、彼が綿密に書き込んだ普請の計画書が見当たらない。源内は町人を問い詰めたあげく、逆上して、知らないという町人を刀で切ってしまった。ところが、周囲を片づけると、その計画書が出てきたので、後悔し、自首したのだという。

 実際、このころの源内の様子はおかしかったようだ。門弟の森島中良作の浄瑠璃が大当して、自作が不評だと、異様に嫉妬して楽屋裏で血相を変えて忠良を面罵したという。描く絵も奇妙だった。大田南畝らが源内を訪ねて書を請うと、得意な絵があるといってすぐに描いたのは、岩の上から一人が小便をし、岩の下の一人がそれを頭から浴びてありがた涙を流すという奇妙奇天烈な絵だったという。

「我は只及ばずながら、日本の益をなさん事を思ふのみ」と、国益だけを考えて他分野で邁進してきたのに、結果は出ないし、世間の理解も得られない。さしもの源内も、精神的にも行き詰っていたということだろうか。

 入獄して1カ月ほど経った12月18日。源内は獄中で死去した。破傷風が原因という説があれば、後悔と自責から絶食して死んだという説もある。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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