【べらぼう】万能の天才から男色までルネサンスの巨人と共通点 「平賀源内」はなぜ獄死したのか
日本初の博覧会を企画し日本初の西洋画を描いた
高松藩志度浦(香川県さぬき市)で、藩の御米蔵番を務める下級武士の家に生まれ、本草学、つまり自然の動植物や鉱物などを収集し、種類や性質、効能などを研究する学問を学んだ。20代前半で1年ほど長崎に遊学後、江戸で本草学者として独り立ちすると決意し、藩に辞職願を出す。頭角を現すきっかけになったのが、源内発案による「東都薬品会」で、第1回は宝暦7年(1757)に湯島で開催され、同12年の第5回は全国から1,300もの物産が集まり、「日本初の博覧会」と評価されている。
第1回で知り合った杉田玄白は、源内は多分野で活躍したが、本草家が本来の姿だ、と評価していた。また、「東都薬品会」を開催する背景には、源内がこだわった「国益」への思いがあった。自然豊かな日本には外国の珍しい物産に負けないものがたくさん埋もれているはずだから、それを発見して国産化するのだ、と。
その発想と重なるが、各地で「殖産興業」にも勤しんだ。ひとつが先の『放屁論後編』からの引用にも出てきた、秩父で見つけた石綿製で不燃性の火浣布だった。10センチ四方をつくるのがせいぜいで実用化にはほど遠かったが、秩父では金、銀、銅、鉄のほか緑青、明礬、磁石なども発見し、幕府を巻き込んで開発に手を出している。
明和7年(1770)には長崎に再遊学した。そのための資金稼ぎに書いた『神霊矢口渡』など浄瑠璃の戯曲がいまも上演されていることも、源内の多才を象徴している(以後、浄瑠璃や戯作の分野では、風刺が効いた数々の傑作を生み出した)。また、好奇心の塊のような源内は、長崎では目的だった本草学以外のものも気になって仕方なかったようで、西洋絵画を研究し、エレキテルをはじめとするオランダ製の種々の器具などを江戸に運んできた。日本初の西洋絵画といわれる夫人像も源内作である。
その後、鉱山技師としては、秋田藩から指導を依頼されもした。摩擦を利用した静電気の発生装置であるエレキテルは、独力で修理方法を編み出して復元。それをもとに生前、15台を制作した。また、オランダ製のタルモメイトル(寒暖計)や量程器(いわゆる万歩計)などを再現。ほかに高価な羅紗の国産化をねらって、綿羊の飼育まではじめている。
経営が不得手な「眼高手低」の「能動的楽天主義」
それにしても、文字どおりに「マルチな活躍」をしたものだと感心させられる。「万能の天才」として、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロに擬せられるのもわからないではない。ところで、いま挙げたルネサンスの2人の天才とは、ほかにも共通点がある。源内は「水虎山人」という名で『江戸男色細見菊の園』や『男色評判記 男色信定』などを書いている。
これは吉原のガイドブック『吉原細見』のいわば男色版。生涯をとおして女嫌いを公言し、妻帯しなかった源内自身が男色だったと伝わるが、同様にレオナルドやミケランジェロも男色だったのである。
しかし、残念なのは、源内の思いつきが生前に大成した例が、文芸の分野を除けばあまりないということだ。新戸雅章氏はこう記す。「源内の場合には、思い付くと、あとはなんとかなるだろうと、見切り発車的に着手してしまう。芳賀徹氏が『能動的楽天主義』と呼んだ源内の癖である。創業者には必要な資質かもしれないが、経営者としてはやはり欠けるところがあったと言わざるを得ない」(『平賀源内』平凡社新書)。
芳賀徹氏は、このような源内の自信過剰で準備不足のことを、「眼高手低」という適切な言葉で形容した(『平賀源内』ちくま学芸文庫)。
源内が多くの分野で、見切り発車ののちに深めきれなかった原因には、語学力不足も指摘されるが、これに関しても新戸氏が、次のように興味深い見解を示す。「そんな源内が語学を不得手としたのは、ひとえに忍耐力の問題だっただろう。語学を習得するには頭のよさや記憶力に加えて、じっくり取り組む忍耐力が不可欠である。その点、源内先生のフル回転の頭脳は、まだるっこしい語学学習には向いていなかったのだろう」(前掲書)。
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