【べらぼう】教科書で「賄賂政治家」と習ったはずが…田沼意次が正論ばかり吐く理由
めざましい出世と苛烈な転落
田沼意次が発揮した力の源泉は、9代将軍家重と10代将軍家治の2人から厚く信頼されたことにあった。とはいえ、まだ8代将軍吉宗の時代、17歳にして家重の西の丸小姓に抜擢されたとき、前年に死去した父の意行から受け継いだ家督は、600石にすぎなかったが、以後の昇進はめざましかった。
元文2年(1737)、19歳にして従五位下主殿守という大名並みの官位を叙任され、延享2年(1745)に家重が9代将軍に就任すると、随伴して本丸に仕えた。寛延元年(1748)には小姓組番頭に昇進して、上総(千葉県中央部)と下総(千葉県北部と茨城県南西部)に1,400石の知行地をあたえられ、宝暦5年(1755)にはさらに3,000石が加増され、同8年(1758)には、40歳にしてついに大名になった。
宝暦11年(1761)に家重が死去しても、まったく力を削がれないどころか、むしろ政治上の影響力を強めた。明和4年(1767)には側用人に就任し、5,000石の加増を受け、従四位下に叙位され、さらに加増を重ねて2万石の大名になり、遠江(静岡県西部)の相良(牧之原市)に築城を許されている。
明和6年(1769)に老中格、同9年(1772)には名実ともに老中に昇格したが、そのまま将軍のそば近く使える側用人も兼務したため、老中としては首座ではなかったにもかかわらず、権力が意次に集中することになった。最後の加増は天明5年(1785)1月の1万石で、これで5万7,000石の中級譜代大名になった。
ところが、天明6年(1786)8月25日、将軍家治が死去する。その直前、家治に遠ざけられ、死去の2日後には68歳にして側用人兼務の老中職を解かれ、閏10月には家治の治世に加増された2万石と、江戸の上屋敷や大坂の蔵屋敷を没収された。
すべては将軍家の恩に報いるため
この意次の昇進と転落は動かしがたい事実だが、そこに強欲や金まみれのイメージを重ねると、この人物を見誤ってしまう。翌天明7年(1787)5月、意次は苦境から脱したい思いで、大元帥明王にすがっている。捧げた願文には、こう書かれている。
「惇心院様(家重)浚明院様(家治)ニ仕エ奉リ、莫大之御高恩ヲ蒙リ、剰ヘ老職(老中)に補セラレ、大禄ヲ下シ賜リ、御慈恵月々ニ厚ク、年々重シ。其高キコト嶽ノ如ク、其深キコト海ノ如シ。然レバ則チ、昼夜心力ヲ尽シテ、御高恩ノ万箇之一報ジ奉ラント欲スルノ外、更ニ他事無ク、偏ニ天下之御為ヲ奉ジ奉リ、聊カモ身ノ之為ヲ致サザル処ハ、上天日月之ヲ照覧シ、神明仏陀同ク共ニ、之ヲ明知シ賜フベキ也」
要するに、家重と家治に仕え、山のように高く海のように深い恩を賜り、大きな禄をいただいた。力を尽くしてきたのはその恩に報いるためで、少しも自分のためでなく、ひとえに天下のためだけに尽力してきたことは、太陽も月も見ているし、神仏も承知している――。そう必死に懇願している。文面からも、これは真摯な心情の告白だろう。
『べらぼう』の第13回でも意次は「私はただ、徳川の世を守りたいだけの者にございます」と強く述べたが、その台詞はこの願文とそのまま重なる。
そんな意次の政策は「重商主義的」経済政策と呼ばれる。代表例として株仲間が挙げられることが多い。じつは株仲間自体は吉宗も認めていたが、それは商人を統制するためのものだった。一方、意次は運上金や冥加金という営業税を徴収して、幕府の財政を補填しようとした。
殖産興業にも積極的だった。蝦夷地の開発や鉱山の振興を進めようとしたが、そういうときは民間の献策をもちい、民間活力を利用しようとした。白砂糖や朝鮮人参の国産化に際しても同様だった。
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