「おいアゴ」「ブラジルの猿」と罵倒され…猪木が力道山から強要された「一升瓶の一気飲み」

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砲丸投げと円盤投げで優勝

――著書の中で、お兄さんはブラジルに渡る前から、すでにレスラーになると決めていたと明かされています。

 はい。日本にいた頃、力道山のプロレスを見て、すぐに「俺はレスラーになる」と決めていました。相撲部屋から誘いもありましたが、兄貴は「相撲取りにはなりたくない」と言って、すべて断っていましたね。

――ブラジルに行ってからも、その気持ちは変わらなかったのですか。

 変わらなかったです。むしろ、オリンピックに出ればプロレスラーになれる可能性が高まると考えて、陸上競技に励んでいました。砲丸投げ、円盤投げ、やり投げの3種目です。やり投げについては、2、3回練習しただけでやりがどこかに飛んで行ってしまったので、あまりできませんでしたね(笑)。でも、砲丸投げと円盤投げでは優勝して、新聞にも大きく載りました。

――その新聞記事を力道山が見て、スカウトしたんですね。

 そうです。力道山が「この男を探せ」と言って、兄貴を探していました。そのとき、ちょうど兄貴は力道山とコネクションのあった日系人の陸連幹部が経営する青果市場で働いていたため、すぐに会いに行けたんです。当時サンパウロで一番いいホテルに呼ばれて、「はだかになれ」と言われて、そこから話が進んでいきました。

――力道山がお兄さんを見出した理由は何だと思いますか。

 やっぱり体格でしょうね。筋肉はまだ充分ついていなかったでしょうけれど、体のバランスが良かった。手足の長さもちょうどよく、練習すればすぐに体が出来上がるタイプだったんだと思います。

――力道山の下での鍛えられ方は厳しかったですか。著書の中では、「おいアゴ」「ブラジルの猿」と罵倒された日々も記されています。

 ものすごく厳しかったと聞いています。レスラーは一般人とは違うんだということを見せるために、一升瓶に入った日本酒を一気に飲めと強要されたこともあったそうです。普通なら急性アルコール中毒で倒れてしまうような量ですよ。でも、うちの家系はお酒が強かったので、耐えられたのかもしれませんね。

――力道山について、お兄さんはどんなことを言っていましたか。

 いろいろと教わったし、師匠として尊敬していました。だからこそ、(力道山の故郷の)北朝鮮にまで行ったんじゃないですかね。力道山が亡くなったときも、兄貴はかなりの衝撃を受けていました。

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 第3回【ピストルはどこから…「規格外だった」アリ軍団 「もう脅迫です」アントニオ猪木の弟が明かす“伝説の一戦”】では、アリ戦の舞台裏を明かしている。

猪木啓介氏
1948年、横浜市出身。猪木家11人きょうだいの末弟。1957年、一家でブラジルに移住。1971年、新日本プロレスに入社し営業を担当する。アントニオ猪木の闘病生活を支え、最期を看取った。

デイリー新潮編集部

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