お妃候補に妹の名前が挙がると「ご辞退すべき」 美智子さまと逝去した兄の“知られざる関係”
「どこでにでもあるような家庭ですよ」
正田家の人々、巌さんにも取材攻勢が続くが応じたものはほぼ皆無。ジャーナリストの加藤仁さんは80年代の初め、日銀国債局長時代の巌さんと短いながら対面取材、月刊誌「現代」に発表した。加藤さんは88年、「新潮45」で改めてその時の様子の一部に触れている。
巌さんに正田家の教育方針について聞くと、うんざりとした表情で〈特別なことをやってたわけじゃない。どこにでもあるような家庭ですよ。あのことがなければ正田なんて名前が有名になることもない。雑誌だってとりあげない〉と語った。
85年から94年まで日銀の監事を務めた。以降は、当時の日本火災海上保険や明治生命保険の顧問を担う。2児を授かり、二人とも慶應義塾大学を卒業して、民間企業に就職している。
美智子さまはほとんど里帰りされず
美智子さまはほとんど里帰りされず、正田家の側から出過ぎた行動はなかった。軽井沢滞在中には会う機会があったようだ。
東京・東五反田のお屋敷町にある正田邸の別棟に巌さん家族は住んでいた。その部分以外の土地建物を英三郎さんの相続税の一部として物納することをきょうだい3人は2001年に決断。美智子さまが育った建物を保存すべきだと運動が起き、そばに住む巌さんが取材の矢面に立たされた。
「“すでに物納していて、他に申し上げることはありません”と言葉は少ないながら取材に丁寧に応対していました」(神田さん)
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