ヤクルトのリーグ優勝を支えた左腕「久古健太郎」が語るセカンドキャリア 「逆算しながら考えると、今やるべきことが見えてきます」
横浜スタジアムで経験した3.11
久古氏も加わった日本製紙石巻は2010年に東北予選を勝ち抜くと、チーム初の都市対抗野球の出場権を獲得。本戦ではわずかに力及ばずに初戦で敗れたものの、先発として存在感を示した久古氏は、同年秋のドラフト会議で、東京ヤクルトスワローズの5位指名を受けることに。チーム初のプロ野球選手の誕生が決まると、自ずと歓喜の輪が生まれた。
「僕を信じて指名してくださった皆さんに期待通りの活躍を見せるために、新しいことに力を入れるよりも、これまでやってきたことを大切にしながら過ごすことを心がけていました」
プロ野球界での飛躍を誓って臨んだルーキーイヤーは、キャンプこそ2軍スタートだったものの、3月のオープン戦で1軍に昇格。左投手が少ないチーム事情もあって久古氏は日に日に存在感を示していった。まさに、そんな時だった。横浜とのオープン戦が行われていた3月11日、久古氏らヤクルトナインに突然の揺れが襲いかかったのは。
「横浜スタジアムで試合をしていると、グラウンドがジェットコースターのように揺れ始めて。今にも倒れてきそうな照明の揺れに恐怖を感じながら、グラウンドに避難したことを覚えています。やがて揺れが収まると、外野のビジョンに『東北が震源だ』という情報と、前年まで過ごしていた石巻の町に津波が押し寄せる映像が流れてきて……。慣れ親しんだ場所が甚大な被害を受けている様子を見て、一言では到底表せない恐怖や悲しみがこみ上げてきました」
果たして本当に野球をしていいのか
幸いにも、その時関東に遠征していたかつてのチームメイトは難を逃れたが、前年まで久古氏が働いていた工場は津波で跡形もなく流され、のちに元同僚の悲報も伝えられた。
「前年までのチームメイトが、帰宅後にさまざまな救援活動を行っているという話や、現地の大変な情報も伝えられていました。自分が力になれない心苦しさも感じましたけど、身近な人が1日も早く平穏な生活が取り戻せることを祈るくらいしかできませんでした」
2011年のプロ野球は、東日本大震災の影響で当初の予定よりも18日遅れの4月12日に幕を開けた。久古氏はルーキーながらも開幕一軍の切符を掴んだが、その心中には複雑な思いもあったという。
「『果たして本当に野球をしていても良いのだろうか?』という空気も残る中で、開幕を迎えました。当時は1年目だったので、それなりに不安も感じていましたが、野球が出来る日々に感謝しながらプレーすることを心がけました」
この年、開幕ダッシュに成功したヤクルトは、その後も順調に貯金を積み重ねてペナントレースを独走した。久古氏も中継ぎとして52試合に登板し、7月10日からは21試合連続無失点を記録。安定した投球でチームの躍進を支えたが、シーズン終盤に中日の逆転優勝を許すことに。
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