平均寿命22.7歳、休日は年2日…芝居も観られぬ吉原女郎たちの悲惨すぎる一日と一生
酒宴と行為漬けの不健康な日常
また、1日のなかでも気を抜ける時間は少なかった。明け方に客が帰ると、二度寝の床に就いた女郎は、だいたい四ツ(午前10時ごろ)に起き、そこから昼見世がはじまる九ツ(正午ごろ)までは自由時間だった。七ツ(午後4時ごろ)までが昼見世で、終わると遅い夕食をとった。
それから暮れ六ツ(日没)まで、また自由時間ではあったが、事実上、夜見世の支度で手一杯だった。そして夜見世がはじまる。仮に張見世に並んで客がつけば、妓楼の2階の座敷で客と対面。しかし、また張見世に並んで、ほかの客の指名も受ける。それから2階でそれぞれの客の相手をする。
夜九ツ(午前0時ごろ)に「中引け」となって、女郎屋の表戸が閉められ、夜八ツ(午前2時ごろ)には「大引け」となって、吉原の営業は終了する。しかし、そこまで宴会に参加するなどしていた女郎は、そこからは朝まで床入り後の「接待」を延々と続けた。
要するに女郎は、このようなタイトなスケジュールで、酒宴と行為にまみれた日々を年がら年中送っていた。芝居を観に行けないどころか、なんとも不健康な生活を強いられたのである。
女郎が年中行事に苦しめられた理由
また、女郎にとってやっかいなものに「紋日」があった。これは吉原で大事にされていた年中行事が行われる日である。大門から出られなかった女郎も年中行事は楽しめた、と早合点してはいけない。
有名なところでは、桜の木を運んできて仲の町に植えた「花見」、若くして死んだ玉菊という女郎(太夫)の霊を弔ったのが起源で盆に灯籠を飾る「玉菊灯籠」、芝居や踊りなどの即興劇をしながら練り歩く「俄」などがあった。
こうした紋日は、吉原では客の出費がかさむ日だった。揚代が普段の二倍になり、台の物(宴席の料理)や祝儀も同様だった。要するに、妓楼や引手茶屋が儲けるために紋日を設定したのだが、これが女郎にとって大きな負担だった。催事があると、女郎は自腹で着物を新調し、お付きの新造や禿の分までそろえ、妓楼の奉公人などに祝儀をあげなければならなかった。
それだけではない。紋日に客がつかないと、女郎は揚代を自分で支払わなければならなかった。このため女郎は、紋日に馴染み客に来てもらうために、あの手この手で必死に誘いかけた。
妓楼は儲け優先で紋日を増やし、結果として客足が遠のくほどだった。寛政9年(1797)には幕府からの通達で、紋日が年間18日に制限されたが、それまでは80日以上もあったのである。
[2/3ページ]