平均寿命22.7歳、休日は年2日…芝居も観られぬ吉原女郎たちの悲惨すぎる一日と一生

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享年の平均は22.7歳

 これほど余裕がなく、不健康な日々を送っていれば、病気にならないほうが不自然だろう。しかも、性病の予防具もない環境で日々、不特定多数の男性と行為を重ねるのだから、梅毒など性病への罹患率はきわめて高かった。全員といっていいほどの女郎が罹患していたと考えられている。

 梅毒にかかって寝込むことを「鳥屋につく」といった。症状が進んで髪が抜けるのを、鳥の羽が季節によって抜け替わるのにたとえたのである。皮膚に腫れが生じ、鼻が落ちるようなことにもなり、それを苦にして井戸に身を投げたり、刃物で喉を突いたりして自死する女郎もいたと記録されている。

 ちなみに梅毒は、しばらくすると潜伏期間に入り、感染力をもたなくなる。医学知識が貧弱だった当時、この状態は完治したものと信じられ、しかも、いったん治ると二度と罹らないと考えられていた。このため梅毒の潜伏期間にある女郎たちは、復帰してここぞとばかりに客をとったのである。

 女郎に多かった病気には、ほかに密集した生活が原因と思われる労咳(肺結核)があった。栄養不良や過労で倒れる女郎も多く、いったん倒れると死につながることは珍しくなかった。性病とほかの病気を併発する例も多かったと考えられている。

 命を落とした女郎たちは、親が江戸にいれば引き渡されたが、親元が遠国の場合、死骸は薦につつまれ、「投げ込み寺」だった三ノ輪の浄閑寺(荒川区南千住)の墓穴などに、文字どおり投げ込まれた。往年の歴史学者、西山松之助の著書『くるわ』によれば、浄閑寺の過去帳には、遺体が運ばれた女郎の享年の平均は22.7歳だったと記されている。

 蔦重が語ったように、多くは江戸にいながら一度も芝居を観ず、この世に別れを告げたのだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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