「過激派による葬列妨害が」「政府が頭を抱えたのはブッシュ大統領の席次」 皇室担当記者が見た昭和天皇「大喪の礼」全内幕

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「政教分離」で激しい論争

 ところが、日程は決まったものの、今度は葬儀の在り方をめぐって大もめになる。新憲法下で初めての大喪の礼は、具体的な式の内容を規定した法律がないため、「政教分離」の原則を巡る激しい論争が、葬儀の直前まで続いたのだ。

 1927年の大正天皇の大喪儀はすべて神道形式の国葬として行われたが、今回は憲法第20条3項の「国は、いかなる宗教的活動もしてはならない」(要旨)に触れないよう、政府は宗教色の排除に腐心する。最終的には、葬儀は2部制となり、前半は皇室行事の本葬に当たる「葬場殿の儀」で、神道式の葬送儀式。後半の国の葬儀「大喪の礼」は宗教色をなくすことで決着した。

 それだけではない。政教分離の最大の問題は、葬場殿(新宿御苑)での鳥居の設置であった。原案にはなかった鳥居が議論終盤になって復活し、建てられることになった。皇室の伝統的儀式を重んじる自民党の保守派が、大正天皇の大喪には高さ8メートルの大きな鳥居が建ったのだから、今回も鳥居は絶対に欠かせないと政府を突き上げたからだ。これに対し護憲派は、憲法に反する神道色の強い葬儀は認められないと批判したのである。

 筆者の当時の取材では、初めに鳥居設置を計画していた宮内庁は、昭和天皇が倒れた1988年秋になると、「憲法の関係で鳥居の設置は無理になった。大正天皇の大喪との大きな違いは鳥居がないことだ」と大方の幹部は否定的だった。その鳥居が復活したのだ。

“妥協の産物”

 特に宮内庁の担当者らが驚き、怒っていたのは、首相官邸サイドが「鳥居を設置するのは、宮内庁側の要望を受け入れたからだ」と説明したためだ。「鳥居が復活したのは保守派が押し返したからであり、それを宮内庁のせいにされるのは我慢できない」という声を宮内庁内で何度も聞いた。

「政府と宮内庁の対立」が報じられる中、宮内庁の藤森昭一長官は、大喪を2週間後に控えた2月10日の記者会見で「鳥居を要望したのは宮内庁側だ」と述べ、政府との対立はないことを強調した。大喪を直前にしてようやく事態は収拾されたが、宮内庁の幹部がこう解説してくれた。

「鳥居にこだわる自民党保守派の巻き返しに困った官邸が最後に頼りにしたのは、官房副長官から宮内庁入りした藤森長官だった。官邸の立場が分かっている藤森さんは調整役を務め、鳥居は宮内庁からの要望ということにしたのでしょう。官邸と宮内庁が一体となってお代替わりがスムーズに進むよう送り込まれた藤森さんならではの仕事だった」

 こうして、“妥協の産物”とも言われる高さ2.9メートルの小さな鳥居が登場することになる。

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