月桂樹のポロシャツでおなじみ「フレッド・ペリー」の意外な来歴 “王者”の座を手にしたのはテニスだけではなかった!(小林信也)

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卓球王国を撃破

 今回、改めてペリーに光を当てたいと思ったのは、思いがけない事実を知らされたからだ。

「ペリーはテニスを始める前は卓球の世界王者だった」それを知って、仰天した。まさか、卓球とテニスではあまりにも違う。ところが、確認すると間違いなかった。

 1929年第3回世界卓球選手権男子シングルス優勝。ダブルスと団体でも銅メダルを取っている。

 当時の卓球界では、ハンガリーの選手が世界を圧倒していた。第1回ロンドン大会、第2回ストックホルム大会はいずれもハンガリーの選手が優勝、準優勝を占めている。そしていよいよそのハンガリーで開催されたブダペスト大会、地元の期待を打ち砕いて王者に輝いたのがペリーだった。敵地での決勝戦、会場の声援は圧倒的にハンガリー代表ミクロシュ・サバドスに送られていただろう。その逆境の中、イングランドに初の栄冠をもたらしたペリーの技量と精神力は、並大抵のものではなかったと想像される。その後またハンガリーの天下が続き、第4回から第9回まですべてハンガリー勢が優勝。ペリーに敗れたサバドスも2年後に王座に就いている。

 卓球で世界王者になった時、ペリーは19歳。その後まもなくテニスに転向し、当時の世界王者アンリ・コシェ(フランス)の技術を追いかけ、わずか4年で最初のグランドスラム大会(全米)優勝を果たしている。

日本のレジェンドと

 日本のテニスファンには興味深い史実がある。ペリーは伝説のテニス選手・佐藤次郎と対戦している。

 佐藤は、31年の全仏オープンでベスト4に入り、それからの3年間で四大大会ベスト4を5度も記録した。

 33年の全仏、準々決勝で破った相手がペリーだった。翌年、持病の胃腸炎を悪化させ出場を辞退したものの日本テニス協会の強い要請でデビスカップに向かう途中、マラッカ海峡付近で船から身を投げ自殺した。佐藤もまた、コシェの影響を受けた選手だった。

 ペリーと佐藤は、31年のデビスカップ(英国)準決勝で対戦している。試合後、ネット越しに握手を交わすペリーと佐藤のモノクロ写真がある。ペリーはりりしくすがすがしいまなざしで佐藤を見つめている。やや後ろ向きの佐藤の表情は見えないが、敗戦に落ち込んでいる様子がうかがえる。ともにコシェを追いかける選手同士。初めて日本代表に選ばれた佐藤にとって、ペリーとの試合は苦くも刺激に満ちた経験だっただろう。スポーツの夜明けを飾る二人の対戦に思いをはせると、言葉に尽くせない感慨が湧き上がってくる。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部などを経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2025年1月23日号掲載

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