プロ意識の欠如で故障、知らぬ間に金銭感覚も麻痺して…4年で戦力外通告された元阪神投手(44)が明かす、入団1年目の後悔

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 ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第10回は1997年、岐阜県立土岐商業高からドラフト6位で阪神タイガースに入団した奥村武博さん(44)です。元プロ野球選手で初の公認会計士でもあり、スポーツチームの企画運営やコンサルティングを行う会社代表、プロアスリートのセカンドキャリアを支援する事業など、多方面で活躍されています。前編では高校時代にドラフト指名を受け、阪神に入団した思い出から伺います(前後編の前編)。

史上初の「元プロ野球選手からの公認会計士」

 阪神タイガース在籍時には、同期入団の井川慶とともに、野村克也監督から大きな期待を寄せられた。しかし、相次ぐ故障に苦しめられ、プロ4年間で一軍出場は一度もなかった。不完全燃焼のまま、22歳で第二の人生が始まり、飲食業への進出を図ったものの挫折。奥村武博が選んだのは「公認会計士」という新たな道だった。

「そもそも公認会計士という仕事が、具体的にどんな業務をするのか、よくわかっていませんでした。ただ、高校時代に日商簿記2級を取得していたし、“何となく《公認会計士》という字面がカッコいいな”と思いまして(笑)。でも、調べてみると弁護士、医師と並ぶ三大国家資格の一つで、合格は容易ではないと分かったのですが、逆に、それなら絶対に合格してやると思ったのです」

 そして、9回目の受験で念願の公認会計士となる。元プロ野球選手としては史上初となる快挙だった。彼は今、第一線で多忙な日々を過ごしながら、アスリートたちのセカンドキャリア支援に励んでいる。奥村の野球人生、そして現在の日々に迫りたい――。

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 岐阜県立土岐商業高校時代には、一度も甲子園出場はかなわなかった。しかし、1997(平成9)年、高校3年時の秋にJR東海から内定をもらい、「社会人野球を経験してから、3年後にプロを目指したい」と考えていた奥村に朗報が届いた。

「甲子園に出ていたわけでもないし、全国的には無名の選手だったのに、阪神タイガースからドラフト指名を受けました。順位は6位だったけど、球団を選んだり、指名順位にこだわったりするような選手じゃないことは、自分でもよく理解していたので、“ぜひ入団してほしい”と言われれば、どこのチームでもいいと考えていました」

 当時のタイガースは低迷期が続いていた。俗に「暗黒時代」と称される時期にあったが、奥村にとっては「むしろチャンスだ」という思いの方が強かった。

「逆に暗黒時代だからこそチャンスは多いはずだ。そういう思いはありました。高卒での入団でしたから、“大学に行ったつもりで4年間は下積みを経験して、そこから自分の力でチームを強くしよう”、そんなバラ色のキャリアを思い描いていました」

プロ入り後、少しずつ狂っていく金銭感覚

 しかし、プロ1年目に早くも右ひじを痛めてしまう。高校を卒業したばかりで、まだ身体が十分にできていない状態で無理をしてしまったことが原因だった。

「故障したのは、自分の意識の低さが原因でした。それまでの練習や身体のケアは、すべて自己流でした。甲子園に出場するようないわゆる“全国レベル”を知らなかったのです。それがいきなりプロに入ったことで、何もかもそれまでのやり方とは違っていたことに気付かされたんです。ハッキリ言えば、プロ意識が欠如していた。それが故障の最大の理由だったと、今なら思えますね」

 奥村がプロ2年目となる99年、タイガースは野村克也を指揮官として迎え入れた。「ID(データ重視)野球」を掲げ、ヤクルトスワローズを何度も日本一に導いた名将は、故障に苦しむ奥村に注目したという。

「1年目のオフにケガをして、2年目はほぼリハビリに費やしました。それでも、ようやく投げられるようになって実戦復帰した秋季キャンプで、野村監督から強化選手に指定されました。3年目ぐらいまでは、“首脳陣はオレに期待してくれているんだな”というのは感じていました」

 公称188センチメートルという高さから投じられる角度のあるストレート。さらに大きく曲がるスライダーも持っており、コントロールには絶対的な自信があった。コントロールを重視する野村にとって、奥村は理想的な投手だったのだ。3年目の春季キャンプでは一軍帯同が認められた。

「キャンプ、オープン戦ととても充実していました。結局、二軍で開幕スタートとなったけど、ファームではローテーション入りも果たして、“そろそろ一軍昇格だ”というときに肋骨を疲労骨折して、最初のチャンスをフイにしてしまいました。ケガが治ってからも、おそるおそる投げているうちに、今度は肩を痛めてしまった。この頃は、自暴自棄とは言わないけど、遊びというか、ラクな方、ラクな方を優先して、リハビリ期間中に自分をレベルアップすることを怠ってしまいました。後から考えたら、すごくもったいないことをしてしまったと思います」

 この頃、奥村は先輩選手に連れられて酒を呑むこと、夜の街の楽しさを覚えてしまった。知らず知らずのうちに、金銭感覚も狂ってしまったという。

「野球界の良き文化の一つとして、年長者と食事に行くと、その先輩が食事代を払ってくれます。そうすると、自分の年俸以上の遊びを覚えてしまうんです。高級店で食事をしたり、値札を見ずに買い物をしたり、知らず知らずのうちに、金銭感覚が狂っていったのも、この頃のことでした」

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