いきなり自宅に電話で驚いたスカウトマンの暗記力…「11PM」カバーガールが明かすバブル期の芸能界

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小栗香織インタビュー前編

 バブル絶頂期にグラビアを席巻した女優の小栗香織。深夜のテレビ番組「11PM」のカバーガールを務めるなど、タレントとしても活躍した。TBS系ドラマ「不適切にもほどがある!」が大ヒットしたが、80、90年代当時の芸能界はどのような様子だったのか、振り返ってもらった。(インタビュー前後編の前編)

 高校3年生の時、学校帰りにスカウトされました。場所は横浜です。ちょっと怪しいと思ったし、芸能界に全く興味がありませんでしたので、一度はお断りしたんです。

 当時は家に帰る前に、公衆電話から必ず「帰るね」と自宅に電話していました。その時も電話してから帰宅したんです。そうしたら、そのスカウトマンから自宅に電話がありました。

 電話番号を教えてないのに、「なんで?」と思いました。後から聞くと、私が公衆電話でプッシュしていた番号を、後ろから見て暗記していたそうなんです。熱意がすごかったですね。

 とりあえず、「事務所の社長に会ってほしい」と言われたので、会うだけだったら、いいかなと思って、お会いしました。17歳の時です。

 最初にもらった仕事はPARCOのモデルでした。渋谷のPARCOのビルに私のポスターが貼られたんです。その後も、トントンと仕事が決まっていきました。

 PARCOの次はとしまえん(現在は閉園)のイメージガールでした。当時はバブル絶頂期です。「事前に日焼けをしてください」と言われて、撮影の1週間前にハワイに行きました。毎日、日焼けして遊んでいました。

ハワイ撮影でショートカットに

 1週間後にスタッフが来て、その後、1週間ほどハワイにいたのですが、撮影は実質1日だけ。そういうお金の使い方はバブルの時にしかできなかったですね。ただ、撮影では、監督が「髪の毛はショートがいいな」と言い出して、その場でバッサリ切られたんです。衝撃でしたね。芸能界はこういう世界なのかとも思いました。

 高校を卒業してからは、事務所社長の家に一緒に住んでいました。給料制だったので、個別のギャラがどうだったのかは、今も分かりません。

 最初はモデル業が中心でしたが、オーディションで、深夜のテレビ番組「11PM」の仕事が決まりました。当時、若い女の子の“登竜門”的な番組は、「11PM」「おニャン子クラブ」「オールナイトフジ」の3つでした。「11PM」が初めに決まったため、ほかのオーディションは受けませんでした。

「11PM」では、金曜日のバラエティのカバーガールをしていました。コマーシャルに入る前に、数十秒ほど踊る役です。当時、17歳だったので、生ではなく収録で出演していました。

 周りは、19、20歳のお姉さんたちで、やっぱり元気でしたね。みな、番組が終わったら六本木のディスコに繰り出していました。私はいつもマネージャーが迎えに来ていたので、遊びに行かず帰っていましたが。当時のテレビマンは本当にドラマに出てきそうな雰囲気でした。肩にセーターをかけたり、ピンクのポロシャツを着たりしている人が本当にいました。

 グラビアの仕事では、月に2、3回はロケに行っていました。ハワイ、グアム、サイパンなど南の島が多かったです。必ず月1、2回は海外に行っていました。雑誌の表紙や写真集を出しましたが、出せば売れる状態でした。

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