「桜の花が舞い落ちる木の下で死にたい」――歌人西行が「願いどおりの臨終」を迎えるまで

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 年を重ねていくにつれ、どのように死を迎えるのかが気になってくる人もいるだろう。なるべく穏やかに逝きたいものだが、こればかりは願いどおりにいくとは限らない。

 そのような中で、思い描いたとおりの臨終を遂げたことで有名なのが、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・西行(1118-1190)である。
 
 西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)では、西行の示寂のようすが詳しく描かれている。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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 西行の歌集『山家集』の春の部には、次のような歌が並んで収められている。

「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」(出来ることなら、生涯愛してやまなかった桜花舞い落ちる木の下で、〔旧暦の〕2月15日の釈迦入寂〈にゅうじゃく〉の日に、この世の生を終えたい)

「仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはゞ」(死後、後世を弔ってくれる人があるならば、供養として桜の花を供えてほしい)

『山家集』は、西行が示寂する10年も前に編まれたものであるから、『山家集』に載っているということは、いわゆる辞世の歌ではない。ただ死を覚悟するほどの重い病気をしたこともあるようであり、あるいはそうした折に詠まれたのかもしれないが、具体的にこの歌が詠まれた折の事情は知られないから、ひとまず自らの死についての、日頃の願いを詠み置いたものと解しておく。

 仏道修行者の臨終として、まことにふさわしい願いである。釈迦入寂の日に、桜の花や月に象徴される自然に、安らかに合一せんことを願うのである。

 西行はこの「願はくは」の歌を自ら「来む世には心のうちにあらはさむ あかでやみぬる月の光を」と番(つが)えて、「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」 七番左に自選しているが、この歌に対し判者の藤原俊成は、「……願はくはとおきて春死なむといへる、うるはしき姿にはあらず、この体にとりて上下あひ叶ひ、いみじく聞ゆるなり。さりとて深く道に入らざらむ輩(ともがら)は、かく詠まむとせばかなはざることありぬべし。これは至れる時のことなり」と評して、「持」(引分)の判定を下している。
 
 死を希求するテーマ自体が、うるわしい対象をうるわしく詠むことを志向する和歌には、ふさわしくないと俊成は言っているのであろう。ただこの歌については、上下相調和して、素晴らしく響く。しかしこれは西行だから詠める歌であって、深く道に達していない者が詠んでもよい歌にはならないだろうとする。

 歌壇的営為である歌合の場に、このような歌を持ち込む西行と、それを精一杯理解しようとしながらも「持」の判定を下す俊成……そこに歌壇に生きる者と歌壇の外で自由に歌を詠んでいた者の、立場の違いをみることが出来よう。『新古今和歌集』でもこの「願はくは」の歌は、いったんは入集しながら、最終段階で棄除されている。

 西行はその後病を得て、文治6年(1190)2月16日、河内国弘川寺において、73歳で示寂する。日頃の願いどおりの死であった。文学のみならず、文化史に大きな足跡を残した西行が誠実に生きた人生の、まさに大団円と言うべき終焉であった。

 陰暦2月16日は、この年の太陽暦では3月30日であり、開花が早い年ならば、この当時でも桜は咲いている。

 この事実は、当時の人々に大きな衝撃を与え、深い感動を呼び起こした。俊成・定家・慈円等の歌人たちは、それぞれこの歌を踏まえて、西行の死を哀悼する歌を詠んでいる。

 俊成は西行が亡くなった時、この歌を思い出し、しみじみとした気持ちで
 
「願ひおきし花の下にて終りけり 蓮(はちす)の上もたがはざるらむ」(日頃願っていた桜の花の下で、臨終を遂げられました。この上は、極楽往生は疑いないでありましょう)

 と詠んだ。西行が日頃の願い通りの死を遂げたことを讃嘆、極楽往生は疑いないであろうとする。

 定家は、西行が臨終に際して取り乱さず、立派に死んでいったと聞いて、その死後に三位中将公衡(藤原公衡。定家の従兄弟)に次のような歌を送っている。

「望月の頃はたがはぬ空なれど 消えけむ雲の行方悲しな」(かねて西行上人が願っておられたのに違わぬ望月の空ではありますが、消えてしまった雲――上人――の行方が、ひたすら悲しく思われます)

 定家の歌にしては珍しく、悲傷の思いを率直に詠んでいる。

 そして西行が日頃の願い通りの死を遂げたことが誘因となって、西行に関する事績は、以後急速に説話化されることになり、やがて『西行物語』や『撰集抄』を生むことになる。
 
 この「願はくは」の歌は、西行の志向した世界とその達成を象徴的に語るものであり、後世の西行伝説を生む直接の契機となったという意味で、記念碑的な一首であるといえよう。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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