「よど号」機長の転落人生 英雄扱いから一転、2度目の愛人発覚で日航退職…最後に救いの手を差し伸べたのは

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まるで操縦桿を握っているように両腕を

 平成8年には、よど号の機体がアメリカでVIP用のチャーター機として使用されていることが判明し、テレビ番組の企画で渡米、よど号に再会して試験飛行中に操縦桿を握るという体験もした。

 平成17年に心不全に倒れ、入院した際に肺にガンが見つかった。娘たちは本人に告知せず、自宅で療養していたが、翌年8月、83歳で亡くなった。病院のベッドで眠っているときも、まるで操縦桿を握っているかのように、両腕を上に上げる仕草をしていたという。

 石田機長は自らの後半生をどのように語っていたのか。雑誌のいわゆる「あの人は今」欄に何回か登場した彼は、「身から出た錆だからしょうがない」と語ることが多かった。

 だが、女性関係のトラブルは彼自身が言うように自らが蒔いた種だとしても、人生が転換するきっかけとなったのは、やはり「よど号」事件だった。その事件がなければ愛人がいても表沙汰にはならず、あくまでも家庭内の問題で終わっていたはずなのだ。とすれば、彼もまた紛れもなく「よど号」犯たちの被害者の1人だった。

世間は英雄に「品行」を求めた

 そしてその責任の一端は、英雄が笑顔の家族に出迎えられるという型どおりの「美談」を期待していた国民の側にもあったのかもしれない。少なくとも、日航本社はそう考え、世間体を必要以上に気にしたフシがある。

 関係者によれば、石田機長はそんなことを全く気にしていなかった。北朝鮮からの帰還後、愛人宅に戻れなかったのも、また愛人が身を隠すことを余儀なくされたのも、すべては会社の看板に傷がつかないことを重んじた日航の意向によるところが大きかったという。

 昭和という時代もまた、英雄に品行を求めていた。結果的に、石田機長はその期待に応えさせられ、自らを数奇な人生に追いこんでしまったのだ。

 だからといって、彼が不幸になってしまったとは言い切れない。共に危機を乗り越えた同僚の江崎はこんなふうに言うのだ。

「もともと石田さんは、好きな酒を我慢してまで、出世しようとするようなタイプの人ではなかった。引く時はパッと引き、わが道を行くタイプ。いろいろあったけれど、彼は彼なりに、人生を楽しんだのではないでしょうか」

 英雄の後半生がどうであれ、よど号の乗客を無事に解放させ、機体を損傷することなく無事に帰還させた機長の手腕は、いまも歴史上に消えることなく残っている。

前編【コックピットに赤軍派が乱入しても…「よど号ハイジャック事件」日航機機長のスゴすぎた決断と操縦技術】からのつづき

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部

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