すでに遺体は腐乱しきっていて…文豪・有島武郎が人妻と“軽井沢心中”した理由と遺書の中身

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 日本文学史にその名を残す大正時代の人気作家・有島武郎。東京や北海道、米国で学んだ後、同人誌『白樺』に参加し、白樺派の中心人物となった。妻が夭逝してから作家活動を本格化させ、「カインの末裔」「或る女」といった名作を発表。雑誌記者で人妻だった女性と運命的な出会いを遂げるが、燃え上がった愛の炎はやがて、後戻りできない道へと2人を導いた――。才能に衰えが見え始めていた有島が、人妻との心中という“らしくない”劇的な最期を選んだ真の理由とは。

(「新潮45」2006年2月号特集「明治・大正・昭和 文壇13の『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記、役職名等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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軽井沢は土砂降りの雨だった

 作家の有島武郎(45)が、人妻である「婦人公論」の女性記者、波多野秋子(29)と情死したのは、大正12年6月9日の未明である。その夜、軽井沢は土砂降りの雨だった。八日の深夜、軽井沢駅に到着した2人は、1本の傘を駅売店で購入し、有島家の別荘浄月庵までの3キロあまりの夜道を、寄り添うようにして歩いたという。

 有島は軽井沢に向かう車中で親兄弟などあてに3通の遺書、さらに浄月庵に着いてから友人あてに2通の遺書を書いた。心中を決行したのは午前2時近くと推定されている。

 雷鳴が轟く中、2人はベランダに向かった応接間で、机の上に椅子を重ね、それを踏み台にして並んで縊死を図った。秋子は扱帯を、有島は秋子の市松模様の伊達巻を吊るしていた。

 遺体が見つかったのは、それから約1ヵ月後の7月7日。別荘の管理人に発見されたとき、すでに死体は腐乱しきっていて、人相などは見きわめがつかなかったという。

若い知識人や女性読者から人気の作家

 有島武郎が波多野秋子と出会ったのは大正8年5月、秋子が有島に講演を依頼しに行ったのがきっかけだったという。有島は当時40代前半、若い知識人や女性読者から圧倒的な支持を受けていた人気作家だった。

 31歳のときに結婚し、3人の男児を得たが、数年後に妻を結核で亡くし(残された3人の息子たちのために書いたのが「小さき者へ」)、その後創作に打ち込んで、「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表、白樺派の作家として確固たる地位を築いていた。

 父親は薩摩島津家の一族に仕える元下級武士で大蔵省関税局少書記官。年少の頃通った学習院では有島は大正天皇の学友にも選ばれた。大学は母方の親戚であった新渡戸稲造が教授をしていた札幌農学校(現在の北海道大学)に進み、キリスト教に入信、アメリカへの留学も経験している。

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