僕は“愛人の子”で両親に絶望していた…今度は自分が不倫して、人生の正念場という49歳男性が明かす“苦悩の核心部分”

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「両親には絶望感しかなかった」

 ところが中学の入学式に父がやってきた。式典のときは気づかなかったが、式が終了したとき母が「おとうさんが来たよ」と駆け寄ってきたのだ。彼の記憶の中の父とはまったく違う印象だった。

「痩せていましたね。明らかに病気だとわかるくらい。父は杖に体を預けるようにして立ち、僕をじっと見ていた。そして『シン、がんばっていい人間になれよ』と言ったんです。いい人間、というのがどんなものなのかわからなかったから、『おとうさんみたいになる』と言うと、『それはやめたほうがいい』と苦笑していました。父は自分で作った会社の代表だったんです。大金持ちではなかったけど、小金はもっていたらしい。母と僕が住んでいたマンションも、小さくて古いけど母の名義になっていました」

 父はそのまま止めてあったタクシーに乗り込んだ。母は「もう会えないかもしれない」とつぶやいた。おとうさん、病気なの、だったらどうしておかあさんが看病しないのと言いたかったが、それを言ってはいけない雰囲気があったという。

「高校生のころ、留学することになり戸籍謄本をとったら、父のところは空欄でした。認知さえしてもらっていなかったんですね。それでも母はじゅうぶん生活費や養育費はもらっていたようです。そのこともショックだった。お金さえもらえば子どもの立場は、非嫡出子のままでいいのか、と。おそらく父はすでに死んでいたと思うけど、僕は実父の葬式にさえ出られなかった。それは母のせいだと思い込んだんです」

 母に毒づいた。母は「戸籍なんかどうでもいいのよ」と言ったが、彼の立場としては賛同できなかった。お金は送ってきたかもしれないが、ろくに自分を育てなかった父を憎み、そしてそんな父をずっと愛していたとしか思えない母を情けないと思った。

「今になれば、婚外にできた子を認知するのは大変だろうとは思うけど、親としての義務は果たしてほしかったですよ。両親には絶望感しかなかった」

“戸籍のショック”でグレた彼を変えた「死」

 母はずっと働いていたから「大学に行きたいなら、費用は気にしなくていい」と慎司郎さんに言った。だが、学費は父が遺してくれたのではないかと彼は考えている。母は、中学の入学式以降、父の話をいっさいしなくなった。ごく普通に日常を淡々と過ごす母には、子どもだった彼ではわからない苦労と葛藤があっただろう。

「戸籍のショックで僕は何もかも嫌になって、留学のチャンスも手放しました。母は驚いて教師とともに説得してきましたが、僕は応じなかった。そのまま学校へも行かず、悪い仲間と連れ立って遊ぶようになったんです」

 それまでよかった成績があっという間に転落、このままでは行ける大学なんかないぞと脅された。生きていてもしかたがないと思っていたとき、いちばん仲の良かったワル仲間が突然、自殺した。

「先を越されたと思いました。同じことをしても意味がない。そいつの親から『この子、本当の友だちはシンだけだって言ったことがある。本当はいい子だったのに』と言われて、僕はヤツの分まで生きるしかなくなった」

 受験まで7か月ほどしかなかったが、心を入れ替えて勉強に励んだ。幸い、受験に向いていたのだろうか。誰もが知っている有名私立大学に合格した。

「母は喜んでくれたけど、僕は母には相変わらず冷たく当たっていました。母への感情はうまく整理できないまま固まってしまった感じです」

 大学では経済や経営に興味をもった。同じ志をもつ仲間と大学在学中に会社を設立したが、それはあっけなく潰れた。しかし課題も見えたので、次に会社を作るにはどうしたらいいかもよくわかったと彼は言う。

「大学卒業後は、まずは会社というところに勤めてみようと思いました。希望する会社に行って、自分の会社をつぶした経緯を話したらウケましたね。それを教訓に、次にやるならこんなふうにとビジョンを話したら、役員たちがいっせいに前のめりになりました。気持ちよかったですよ。詳細な計画があるわけじゃなかったから、ちょっとはったりをかましすぎたかと思ったけど、はったりが重要なときもある。社内起業を目指してほしいと言われ、その会社に入社することができました」

 3年後、彼が中心になって社内起業に取り組んだ。3年である程度の結果を出せと言われたのだが、なんと彼は2年でそれを達成した。「運がよかっただけ」と謙遜するが、実際にラッキーなことが重なったそうだ。

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