「元気があれば、何でもできる」「馬鹿になれ…」アントニオ猪木が残した様々な名言 ベスト1は

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「亡くなったのではない、死んでい(居)るんだ」――多くのファンはそう信じ、あの雄姿に思いを馳せ、名勝負の数々を思い出していることでしょう。アントニオ猪木(1943~2022)、多くの説明は必要ないと思います。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は不滅の闘魂の人生に迫ります。いくぞぉー!

猪木に国民栄誉賞を

 この曲でどれだけ勇気と元気をもらったことか。アントニオ猪木(本名・猪木寛至)のテーマ曲でもある「炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~」。プロレスをあまり知らない人でも、これを聞けば「燃える闘魂・アントニオ猪木」を思い出すだろう。

 高校時代にプロレス研究会を立ち上げ、猪木のさまざまな試合を自分の目で見続けてきた筆者にとっても、「闘魂の残照」はいまなお胸を熱くさせる。あのころは「馬場派」と「猪木派」でプロレスファンも二分されていたが、熱い、いい時代だった。

 それにしても、難病「心アミロイドーシス」などの闘病生活の末、2022年10月1日、79歳で亡くなって約1年5カ月になるが、「猪木に国民栄誉賞を」という声は依然として根強い。プロレス以外の業績にも目をやると、まさに国民栄誉賞クラスの活躍を猪木はしてきたのだから。

 1989年、スポーツ平和党を結成して参院選で初当選。プロレスラーとしての初の国会議員の誕生である。90年の湾岸危機では、フセイン政権下のイラクで邦人人質の解放に尽力。師匠・力道山(1924~1963)の故郷でもある北朝鮮には独自のルートを持っていた。33回も訪れ、スポーツ交流による日朝関係改善を訴えた。政治家・アントニオ猪木の足跡を私たちは忘れてはいけない。

 SNS上には「天国を卍固め 釈迦もキリストも閻魔大王もきっとみんな猪木ファン」とある。まんざら冗談ではなく、「猪木ならありうるな」と思ってしまう。

 晩年は難病と闘い、やせ細った自身の姿をYouTubeなどで発信。全盛期の雄姿からはほど遠い姿だが、自身の姿を隠すことをしなかったのも猪木の人生美学だったのかもしれない。「迷わず行けよ、行けば分かるさ」。猪木がよく口にした詩「道」の一節が浮かんでくる。

闘魂ビンタに「元気ですか!」

 相手に喝を入れる「闘魂ビンタ」も懐かしい。参議院の予算委員会では決め台詞の「元気ですか!」を委員長から「心臓に悪い方もいる」と注意されたこともあった。だが翌日、懲りずに再び絶叫した猪木。国会でも「規格外のカリスマ」だったと言っていい。

 そんな猪木の79年に及ぶ波乱の人生をたどる企画展が、今年2月、故郷でもある横浜市みなとみらい地区の大型商業施設で開催された。猪木が獲得したチャンピオンベルトやリングに上がる際に着ていたガウン、真っ赤なタオルなど懐かしい品々が展示され、多くの猪木ファンでにぎわった。

 開催前日、マスコミ向けの内覧会があり、私も取材で会場を訪ねた。うれしいことに、猪木の愛弟子である藤波辰爾(70)がゲストとして参加しているではないか。

 IWGPヘビー級王者だった藤波。1988年8月には横浜文化体育館で猪木からの挑戦を受けた。日本人同士の、しかも師弟対決となった大一番。結果は60分フルタイムドローだった。

 企画展では当時の熱戦を写したパネルも展示された。猪木が藤波を必殺技コブラツイストで決めた瞬間である。藤波さんは「懐かしいなあ」。食い入るように見ていた。

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