ルーツは満鉄?タモリほど鉄道の間口を広げた芸能人はいない… 「ブラタモリ」終了で考える功績

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満鉄勤務の祖父と父の影響?

 しかし、鉄道好きだから鉄道に詳しくなるわけではない。特に、大半の男子は幼少期に鉄道や戦隊モノなどに熱中する。タモリさんが小学生の頃に鉄道好きだったとしても、それだけで鉄道ファンになったと考えるのは早計だろう。

 ただ、タモリさんの祖父と父親は、ともに南満洲鉄道(満鉄)に勤務していた。そうした生い立ちが、少なからず影響を与えていたのではないかという推論は成り立つ。特に、祖父は熊岳城駅で駅長を務めていたという鉄道と強い縁があった。

 戦前期のエリート層は満洲へと渡り、そこでスキルを磨くことが一種のステイタスになっていた。なかでも満鉄はエリートが集まる半国策企業で、その本社に呼ばれた人たちはその後に本国に戻って国家を背負うエリートになることが約束されていた。

 タモリさんの祖父は現場を取り仕切る駅長だから、満鉄本社に呼ばれたエリートではなかったかもしれない。それでも、日本から簡単に人を呼び寄せられる時代ではない。満鉄本社勤務のような日本を背負うエリートではなくても、駅員をはじめとする現場で働く社員たちも優れた社員であったことは想像に難くない。

 祖父が満鉄で駅長を務めていたこともあり、現地での生活は裕福な暮らしだったようだ。タモリさんは1945年8月22日に福岡で生まれている。当然ながら満洲の記憶はないが、福岡に親族が集まると満洲を懐かしむ話に花が咲いたという。

早稲田大学時代にも乗り鉄エピソード

 タモリさんは幼少期から線路の配線構造に魅力を感じていたことを語ることが多い。しかし、早稲田大学に入学してからも周囲が驚くような乗り鉄ぶりを発揮している。

 タモリさんは大学に入学してモダンジャズ研究会に所属した。そこからジャズミュージシャンを志すが、研究会には優れた才能を持つジャズマンが多く、早々にバンドマンの道を諦めている。

 ジャズミュージシャンを諦めたタモリさんだったが、研究会内で司会兼マネージャーという新しい活躍の場を見出していく。早稲田大学には、地域や職業ごとに卒業生による稲門会という団体が組織されている。研究会には、全国各地に点在する稲門会に呼ばれて演奏旅行をする慣習があった。

 全国に卒業生が散らばっているだけあり、演奏旅行は大学生のサークル活動とは思えないほど規模が大きかった。春は1か月、夏は2か月間にもわたるロングラン公演もあり、年間では約300ステージをこなしたという。マネージャーのタモリさんは、その公演の手配を一手に仕切った。

 タモリさんが大学生だった頃、東海道新幹線は東京駅―新大阪駅間のみしか開業していない。山陽新幹線もないから、全国を演奏旅行で回るには夜行列車を多用するしかなかった。

 夜行列車といっても、体を横にして寝ることができる寝台列車ではない。そのため、硬いイスに座りながら睡眠をとらなければならない。だから熟睡することは難しく、心身の疲労を完全に回復させることはできない。それでも、タモリさんは網棚によじのぼって体を横にしていた。

 研究会の演奏旅行は過酷な日程が組まれることが多く、例えば鹿児島から東京経由で青森へと鉄道で移動したこともあった。このときは乗り継ぎのために上野駅で3時間ほど休憩を取っただけで、残りはひたすら列車に乗っていた。それでも、タモリさんは鉄道の旅を満喫していた。

 タモリさんの鉄道エピソードは、幼少期から大学時代まで枚挙にいとまがない。こうした鉄道エピソードがタモリさんを鉄道好きにするとともに、鉄道知識を豊富にしていった。それらの経験が、「ブラタモリ」や「タモリ倶楽部」の鉄道企画にも幅を持たせることにつながり、鉄道には詳しくない視聴者層でも楽しんでもらえるようになっていた。

 芸能界には、タモリさん以外にも多くの鉄道ファンがいる。鉄道知識だけなら、タモリさんを上回る猛者もいるだろう。しかし、タモリさんほど鉄道の間口を広げた芸能人はいない。その功績は比べようもなく大きい。

「タモリ倶楽部」の終了、そして「ブラタモリ」のレギュラー放送が終わることで、鉄道を楽しむタモリさんを見られなくなる。それは鉄道業界にとっても、大きな損失と言わざるを得ない。

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮編集部

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