昭和天皇も見入った麒麟児の突き押し相撲 昭和56年名古屋場所から3年間続いた“面白い現象”とは

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師匠の「よかろう」で二所ノ関部屋に

「俺、今から両国に行って、お相撲さんになるから」

 そう言い残して、突然家を出ていこうとする和春に、母はあわてふためいた。

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 事情が飲み込めなかったものの、なんとか和春と同じ電車に乗り込んだ母は、両国駅に降り立った。

 力士になりたいと願っていても、当てがあるわけではない。まずは、駅前にある立浪部屋へ向かってみたが、突然の入門志願だったため、門前払い。次に、時津風部屋を訪問したのだが、師匠(元横綱・双葉山)が不在だったために、その近くにあった二所ノ関部屋へ。運よく師匠(元大関・佐賀ノ花)が部屋におり、母子を応対してくれることとなった。

 師匠は、入門を懇願する和春をジッと見つめていた。

「うん、よかろう。君の目が気に入った」

 師匠のこの一言で、和春の二所ノ関部屋への入門が決まったのだった。

 翌昭和42年、中学3年生になった和春は、両国中学に転校。5月の夏場所で初土俵を踏んだものの、前相撲で所定の成績が残せなかったため、その場所の出世披露は叶わなかった。翌名古屋場所では、一番出世を果たしたため、9月の秋場所、本名の垂沢で、ようやく序ノ口の番付に付くこととなった。

一進一退を経て…「麒麟児」の誕生へ

「有名になってやる」との意気込みで力士になってみたものの、和春の出世は一進一退を繰り返していた。入門から4年が経った昭和46年春場所で、幕下に昇進。ところが、その後も、思うように成績を残すことができない。

 原因は2つあった。師匠は和春の体型から、突き押し相撲に特化させようとしていたのだが、その型を身につけるまでに時間がかかっていたこと。また、部屋での人間関係のいざこざからみずから髷を切って実家に帰り、その後、再び連れ戻されるという出来事があり、精神的に迷いもあった。

 ところが、昭和48年秋場所、長い眠りから覚めたように、和春は幕下三〇枚目で7戦全勝優勝。幕下二枚目で迎えた翌九州場所でも全勝優勝を果たし、一気に十両昇進を決めるのである。

 昇進を機に、四股名は「麒麟児」と改めた。部屋の大関・大麒麟が若い頃に名乗っていた麒麟児の名を与えたのは、師匠だった。「才能にすぐれていて、将来が期待される少年」を意味する麒麟児は、師匠の大きな期待を表す四股名だったのである。

 昭和49年名古屋場所、十両だった麒麟児は12勝3敗で優勝に輝く。翌秋場所、入幕を果たした麒麟児は21歳。ピチピチと生きのいい動き、童顔ながらキリリとした顔立ちは、まる金太郎のようだ。

 新入幕のこの場所、6日目から6連勝と勢いに乗る麒麟児は、13日目に横綱・輪島との対戦が組まれた。新入幕力士が横綱と対戦するのは、異例のことである。この一番には惜しくも敗れてしまったものの、善戦した麒麟児は、その後輪島に5連勝するなど、「輪島キラー」ぶりを発揮するのである。

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