若くて、お金持ちで、前途有望だった西行はなぜ出家したのか――「潔癖すぎた男」の選択

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 西行といえば、23歳の若さで出家して作歌の道に入り、『新古今和歌集』に最多となる94首が選ばれた天才歌人。

 若くて、お金持ちで、前途有望だった西行は、なぜ突然出家したのか――これまで多くの人々がその謎について議論してきた。
 
 西行歌集研究の第一人者・寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)では、西行の出家の理由として「潔癖説」「恋愛説」「数寄説」の三つを挙げている。ここでは、「潔癖説」を紹介しよう。

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悩みがなさそうに見えた西行

 藤原頼長の日記『台記(たいき)』永治2年(1142)3月15日の条に、出家後間もない時期に、一品経勧進(いっぽんぎょうかんじん)の為に訪れた西行について、次のように記されている。
 
「私は年を尋ねた。25歳だと答える。一昨年、23歳で出家した。そもそも西行は、もと兵衛尉義清と言って、左衛門大夫康清の子である。代々武士として法皇に仕えてきた。出家前から心を仏道に入れ、家が富んでいて年が若く、心に愁いがなかったが、ついに遁世した。人はこれを歎美した」

『台記』の記述で興味深いのは、西行が在俗時より仏道に関心が深かったこと、家が富んでいて、年が若く、心に愁いが無かったにも拘わらず遁世したこと、世間の人々がそれを嘆美したことなどを述べている点である。
 
 家貧しく、あるいは年老いて、また心に愁いがあって遁世するのが世の常であるのに、西行の場合には、そうではなかったという。

 当時においては、多くの人々が心中密かに出家を願いつつも、実際には容易に実行することには踏み切れなかったが、出家を促す要因が他人から見て少しも見出されないにもかかわらず、出家という行為を敢然と実行に移した西行に、人々は称讃を惜しまなかったのである。

 もっとも心に愁いがあったかどうかなどは、他人にはわからない。しかし周囲には、少なくとも頼長の目には、愁いがなかったようにみえたということであろう。

出家前後の心境を詠んだ歌

 西行はなぜ出家したのか。その理由についてさまざまに推測されているが、西行自身は、そのことについて明確に語っていない。ただ出家当時の心境を詠じた歌、周囲に挨拶した歌などが残されていて、それらが僅かに推定の手掛りになるばかりである。

「呉竹の節しげからぬ世なりせば この君はとてさし出でなまし」(もし世の中に憂きことがこれほど多くないならば、この君にこそはと言って、さし出てお仕えしようものを)

「悪し善しを思ひわくこそ苦しけれ ただあらるればあられける身を」(善悪を分別する心があるのは、苦しいことだ。そのようなことに無関心であれば、それなりに生きていける身であるのに)

 ともに、『山家集』下巻の末尾に近い位置に、詞書を付されずに一括されている歌群中にあり、出家前後の心境を詠じた歌と推定されるものである。
 
 現実が「呉竹の節しげ」き世であり、自らが「悪し善しを思ひわく」ゆえに、出家せざるを得なかったのだという。物事の理非曲直(りひきょくちょく)を分別するが故に、現状に留まることが、自らに許せなかったのである。

出家の背景にあった政治抗争

 西行が、具体的にどのような事柄について、「節しげ」き世と感じたのかは分らない。

 当時、西行が親しく近侍していた崇徳天皇やその生母である待賢門院が、東宮(体仁〈なりひと〉親王)やその生母であり、鳥羽上皇の寵愛を受けていた美福門院側に圧迫されていた。
 
 美福門院は、藤原長実(ながざね)の女得子(とくし)である。保延7年(1141)3月に鳥羽上皇が出家して法皇となり、鳥羽法皇の意志で、同年12月に崇徳天皇は譲位させられ、代って体仁親王が近衛天皇(1139~1155)として即位している。
 
 こうした情勢を、西行が「節しげ」き世と受けとめ、理不尽に感じたことは、大いにあり得たと思われる。ともあれこの二首の歌は、西行がきわめて自らに厳しく、安易な妥協を許さない、潔癖な人間であったことを示すものであろう。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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