「清廉な西行」と「貪欲な清盛」はなぜウマが合ったのか――正反対の二人を結びつけた「知られざる縁」

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 平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・西行(1118~1190)。若くして栄達の道を捨てて出家し、和歌の道を一途に追い求めた清廉で高潔な生き方は、多くの日本人の心を惹きつけている。

 一方、平清盛(1118~1181)は、武力と権謀術数を駆使して、権力と富を貪欲に追い求めた平家の棟梁である。まさに水と油のようなキャラクターの二人だが、じつは深い信頼関係で結ばれていたという。一体それはなぜなのか。

 西行一筋60年、西行歌集研究の第一人者である寺澤行忠・慶應義塾大学名誉教授の新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)では、知られざる二人の因縁を解説している。一部を再編集してお届けしよう。

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荘園をめぐる縁

 西行と平清盛は、元永元年(1118)、奇(く)しも同じ年に生まれている。その後の人生の歩みはまったく対照的であったが、若き日にそれぞれ「北面の武士」として朝廷に仕えた時期があり、両者は早くからの旧知だったと思われる。
 
 西行の人生をとおして平家に親愛の情をもち、源氏に対しては好感を持てなかったらしいことは、まぎれもない事実である。

 それは、一つには西行の生家である佐藤氏が持っていた荘園をめぐる問題と深い関係がありそうである。佐藤氏は紀ノ川沿岸に田仲庄という荘園を持っていたが、荘園を管理する弟が平家一門の家人となって、保元・平治の乱の頃から隣接する高野山領荒川庄と激しい争いを繰り広げるということがあった。

 その平家が滅亡すると、木曾義仲の下文(くだしぶみ、上位者からその管轄下の役所や人民などに下した命令の文書)を受けた尾藤知宣に田仲庄を奪い取られようとした。こうした激しい対立と抗争が、西行が高野山に草庵を結んでいた30年間に繰り広げられたのである。
 
 西行は遁世の身であるから、こうした争いに直接タッチすることはなかったが、このような事情を背景に、佐藤氏が服従していた平家に深い親愛の情を寄せ、これを打倒した源氏には冷ややかな心情を抱いていたようである。

仏法興隆に尽力した清盛

 承安2年(1172)前後に、平清盛は後白河法皇の臨席を仰ぎ、福原で数回にわたり千僧供養(せんそうくよう)を催している。ある時清盛は持経者を千人集めて、津の国(摂津の国――今の大阪府の一部と兵庫県の一部)のわだというところで、千僧供養を営んだことがあった。
 
 千僧供養というのは、絶えず法華経を読誦する僧を千人招いて、食を供養し、法会を営むことである。そのいずれかの催しに西行も参加したのである。
 
 そのついでに万燈会(まんどうえ)が催された。夜が更けるにつれ燈火が消えていくのを、それぞれ点(とも)し継いでいるのを見て、詠んだ歌がある。

 消えぬべき 法(のり)の光の 燈火(ともしび)を かかぐるわだの とまりなりけり

 この歌には、末法の世に消えてしまいそうな仏法の光を、盛大な法会によってその光を灯し継ぎ、高く掲げるわだのとまりであったことだと、仏法を賛美し、その仏法の興隆に力を尽くす清盛に対する鑽仰(さんぎょう)の心が込められているのであろう。西行の平氏に対する親愛の情には、この仏法の興隆に尽力する平氏に対する思いも、与かっていたと思われる。

清盛を活用した西行

 西行の数少ない真筆とされる現存資料の一つに、高野山『宝簡集』所収の自筆書簡(国宝)がある。鳥羽上皇の皇女である五辻斎院頌子内親王と、その母春日局の発願により、父の菩提のため、高野山の東別所に「蓮花乗院」という仏堂が建立された。治承元年(1177)にこの蓮花乗院を壇上に移築する仕事に、西行が深くかかわっている。

 この書簡は、当時都にいた西行から高野山に送られたものであるが、書簡には、清盛に対し、紀州日前宮の社殿造営の課役から、高野山が免除されるよう申請したこと、その高野山に対して格別の計らいをしてくれた清盛の恩に報いるため、一山で「百万反尊勝陀羅尼」を唱えてほしいことが述べられている。

 このような西行の働きかけによって、高野山が課役を免れたのは、この二人が旧知であり、互いに心許すものがあったためかと考えられる。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。