小錦の土俵人生 「相撲はケンカ」「自分が日本人だったら」発言で物議 初優勝での号泣はうれし泣きではなかった

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 215キロという規格外の体格、そしてパワー。昭和の終わりに現れた“新しい時代のスター”といえば、高見山に見込まれて大相撲の世界に入った小錦だ。日本の環境に慣れるのが早く、相撲の出世も早かったが、思わぬところで物議を醸したこともあった。その一例が多くの誤解を受けた「相撲はケンカ」発言である。それでも「相撲が好き」と言い切るひたむきさは失わず、最後まで精一杯の相撲を取り続けた。※双葉社「小説推理」2012年12月号掲載 武田葉月「思ひ出 名力士劇場」から一部を再編集

新しい時代のスター

 昭和59年秋場所。

 蔵前国技館での大相撲の開催が最後となったこの場所、優勝争いはもつれにもつれていた。

 中日を終えて、平幕・多賀竜1人が全勝。その後、一敗となった多賀竜は、横綱を狙う大関・若嶋津と共に優勝戦線を引っ張り、1差で横綱・千代の富士入幕2場所目の新鋭・小錦が続く。

 前頭六枚目ながら、急遽、上位戦が組まれた小錦は、11日目、横綱・隆の里、12日大関・若嶋津、14日目には横綱・千代の富士を撃破。

――黒船襲来。

 215キロの規格外の大きさとパワーを誇る小錦を、もう誰も止めることができない。千秋楽、小錦が2敗を守れば、多賀竜との平幕同士の優勝決定戦となる可能性も出てきた。

 初土俵から、まだ2年。ハワイからやってきた若造に、優勝賜杯を渡してたまるか――。

 不穏な空気が流れる中、千秋楽の対戦相手で大関の琴風が、日本人の意地を見せて勝利。結果的に小錦の優勝は実現しなかったものの、この大活躍で、小錦は新しい時代のスターとなったのである。

相撲を取るのに適した体のバランス

 小錦こと、サレバ・ファウリ・アティサノエ少年(通称・サリー)が生まれたのは、ハワイ州ナナクリ地区。両親は敬虔なクリスチャンで子供たちの教育には厳しかったが、ナナクリ地区の治安は悪く、周囲に影響されたサリーも次第に、悪の道に染まっていった。

 しかし、ハワイ大付属高に転校すると、アメフトに熱中し、ハワイ選抜メンバーに抜擢。また、勉強にも力を入れるようになり、「将来は弁護士に」という夢を抱くようになっていた。

 当時から150キロの堂々たる体格。ある時、ビーチにいたサリーを見染めたのが、ハワイ出身力士のパイオニア・高見山の知人だった。昭和57年、ハワイに帰省していた高見山は、知人にサリーを紹介された。

「これはイケる!」

 ひと目見た瞬間に、高見山はそう直感したという。なぜなら、サリーの体のバランスがすばらしかったからだ。上半身に比べて下半身が細い体形の高見山自身が苦労しているだけに、どっしりした下半身を持つサリーが相撲を取るのに適していることは、容易に想像できた。

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