ハワイで遺体発見、胸には銃弾の痕…“天才霊感少女”と言われた藤田小女姫、謎に包まれた56年の生涯

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

前編【「あのときヒメがいなかったら…」 天才霊感少女「藤田小女姫」はいかにして岸信介、松下幸之助に愛されたのか】からのつづき

 ハワイから来た狐が耳元で「コトドヒメ」と囁いた――。その夜を境に予知能力に目覚めたという藤田小女姫さんは、政財界の大物たちまでもが頼るほどの人気占い師として名を馳せた。母子家庭で育ち、相談業務を仕切っていたのは母。ところが名目上のオーナーを務めたサウナの火災死亡事故によって、その能力にはケチがつけられ、支持者は掌を返した。一線を退いた彼女は、その後、養子の吾郎とともに、ハワイで他殺体となって発見される。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです)

 ***

胸を銃弾で撃ち抜かれた遺体

 彼女が、逃げるように日本を離れ、母親とハワイに移住したのは、事件から五年後の昭和四十八年の夏である。この年、彼女は生後間もない吾郎を、養子に迎えている。

 出国から九年の歳月を経て帰国した小女姫は、経営コンサルタントとして、本格的に活動を再開している。昭和五十七年のことだ。彼女と人生をともにしてきた母久枝を病気でなくした直後の帰国だった。

 その後、日本とハワイを行き来していた藤田小女姫は、ハワイのワイキキ海岸近くに所有していたコンドミニアムで、五十六年の生涯を閉じた。平成六年二月二十四日(現地時間二十三日)、建物三十二階の部屋から突然発生した火災が消し止められたあと、クローゼットのなかから、胸を銃弾で撃ち抜かれた彼女の遺体が出てきたのである。

 少し遅れて、近くのホテルの駐車場にとめてあった車が火を吹いた。車の助手席からは、二十一歳になる息子吾郎の遺体が発見された。母同様、胸には弾痕があった。

不鮮明な生い立ち

 真相の見えにくい事件の謎と一緒に、彼女と息子吾郎の血縁に関する数々の推論が噴き出すことになる。遺骨の引き取りや遺産相続、保険金の受け取りが、一筋縄では片づかなかったのだ。

 藤田小女姫の生い立ちについては、不鮮明なことが多い。母のほかに家族はなく、親戚づきあいも薄く、さらに戸籍の縁戚関係は複雑に入り組んでいる。

 藤田小女姫こと東亞子は、福岡県福岡市にあった鉱山会社に勤める父常吉と母久枝の長女として、昭和十三年に生まれている。彼女が四歳のときに両親は離婚し、母子は各地を転々とした。この間の足取りはまったく不明で、いまわかっているのはその八年後、産経新聞に登場した当時、ふたりが横浜市鶴見区に暮らしていたということぐらいだ。

 古い雑誌記事をめくってみた。

 昭和三十六年、銀座で貸金業を営む男性との結婚を控え、二十三歳の小女姫は『婦人公論』三月号に寄せた手記で、めったに語ることがなかった母久枝と自身の少女期について、簡単に触れている。ついでながら、この結婚はわずか三年で破綻した。

「母が離婚されて、横浜の祖父の家に帰って来ていたとはいえ、その苦労は並大抵のものではなかったと思います。

 母は、わたしを立派に育てたいため、弱い体をむちうちながら、寮の舎監をしたり、ある会社の秘書をしたり、また終戦後には、ひょっとしたゆきがかりで、横浜に進駐したばかりの兵隊さんのために、ランドリーをひきうけたりして、ママさんランドリーなどと呼ばれました」

次ページ:異母弟は語る

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。