造船各社の叡智を結集し日本発の環境船舶を造る――三島愼次郎(次世代環境船舶開発センター代表理事)【佐藤優の頂上対決】

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造船は国力に直結する

佐藤 これは素朴な疑問ですが、船はどうして原子力という方向に向かわなかったのでしょうか。

三島 被爆国の日本だと、すぐに拒否反応が出るからでしょうね。

佐藤 ロシアではチェルノブイリ原発事故があったにもかかわらず、原子力船に対するアレルギーはありません。北極海では、ソ連時代の1959年に原子力砕氷船「レーニン」を投入してから9隻が就航し、現在も4隻が動いています。

三島 氷を割って北極海を突き進むのに必要だという差し迫った事情があるのでしょう。

佐藤 軍事的には空母や潜水艦にも使われています。

三島 民間船舶は、脱原発の流れの中ですっかりなくなってしまいました。ただ、日本にもその技術はあったんですね。

佐藤 原子力船「むつ」ですね。

三島 はい。1969年に日本の造船技術を結集して完成させました。ただ最初の試運転で出力を上げた際、「放射線」が漏れた。「放射能」でなく「放射線」です。ですから遮蔽(しゃへい)をすればいいだけの話なのですが、それをメディアが「放射能」だと書き立てて、大騒ぎになった。

佐藤 誤報だったんですね。

三島 その後、遮蔽をきちんと行って100%の出力で8万2千キロ、地球2周以上を走っています。でも結局、廃船になってしまいました。

佐藤 反対運動が繰り広げられ、寄港先を確保するのも一苦労でした。

三島 だから日本にもしっかりした技術があったんですよ。さらに言えば、世界最大級の海洋地球研究船「みらい」や有人潜水調査船「しんかい6500」を建造できるだけの非常に高い技術を持っていた。私は、造船技術は国力の証しだと思っているんです。

佐藤 私もそう思います。ただ、国際競争力が落ちている。

三島 ええ、日本の造船業は2000年に韓国に、2010年には中国に追い抜かれました。

佐藤 造船業衰退にはいくつかターニングポイントがあると思いますが、それはどこなのでしょう。

三島 まず1973年のオイルショックですね。私はその年に日本鋼管に入り造船部門に配属されましたが、その年はよくても、2、3年たつと発注がなくなっていった。日本は1956年に建造数世界一になり、当時は中東から日本に原油を運ぶタンカーの大型化、効率化に注力していました。それが激減してしまった。このため会社はどんどん造船から他部門に軸足を移していきました。

佐藤 それでもまだ世界一の造船国ではあった。

三島 次は1985年のプラザ合意です。

佐藤 円高に移行しましたから、大きく競争力がそがれたわけですね。

三島 ええ。これを受けて1980年代後半、国内では政府主導で造船設備を50%縮小しているんです。

佐藤 そんなに減らしたのですか。

三島 一方、韓国はこの頃から、国力を増強するために造船業に力を入れ始めます。造船業は裾野が広く、まず大量の鉄が必要です。そしてエンジンを含めたさまざまな機械がいる。また多くの人を雇用します。だから国を発展させるのに、一番手っ取り早いのが造船なんです。そしてこの時、日本の優秀な技術者が彼の国に渡って行ったんですね。

佐藤 技術流出が起きてしまった。

三島 それから韓国がキャッチアップしてきて、約10年で追い抜かれてしまいました。

佐藤 韓国は国費を投入しての国策でしたね。

三島 その通りです。そして同時期にまだ力のなかった中国がやはり国力を高めるには造船だと、この分野に進出してきます。中国は人口が多く、もともと多くの海上輸送の荷物がありました。それが経済成長とともに、さらに増えてきた。自国の荷物は自分たちで造った船で運ぼうと、中国でも政府主導で造船設備を整え、港を整備して、造船業を成長させていきました。その結果、日本は中国にも追い抜かれてしまった。

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