「テリーマン」のモデルになった「テリー・ファンクさん」、ジャイアント馬場さんに信頼された不屈の闘志【2023年墓碑銘】

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 長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
(「週刊新潮」2023年9月7日号掲載の内容です)

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 日本のプロレス界を彩った外国人レスラーの中でも、テリー・ファンクの人気は突出していた。1970年代後半から80年代初めにかけ、試合会場では若い女性陣がポンポンを手に応援。“親衛隊”と呼ばれた熱烈なファンも現れた。

 テリーへの人気が爆発的に高まったのは、77年12月。ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスが行った、世界オープンタッグ選手権に兄のドリー・ファンク・ジュニアと「ザ・ファンクス」として参戦したのだ。

 優勝をかけた最終戦の相手はアブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シーク。テリーはブッチャーから容赦ない凶器攻撃を受ける。右腕に何度もフォークを突き刺され、傷口から鮮血が幾筋も流れ出す。東京・蔵前国技館は悲鳴に包まれた。

 応急手当を受けている間に、今度はドリーが凶器で襲われる。兄を救おうとリングに戻り、左手で怒りの鉄拳を繰り出した。テリーの不屈の闘志に観客は沸いた。試合は反則勝ち。今も語り継がれる一戦である。

 力道山の次男で全日本プロレスの旗揚げにも参加した百田(ももた)光雄さんは振り返る。

「やられると燃えるんだとテリーは言っていましたね。テリーがやんちゃ、ドリーは冷静、とタイプは違うのですが、ふたりとも最高の試合を見せようと手抜きなどない。ふだんプロレスを観ない人たちにもファンが増え、情に厚いテリーはサインにも丁寧に応じた。こすっからいところがなく、馬場さんにも信頼された」

この痛さを覚えておけ

 44年、アメリカ・インディアナ州生まれ。テキサス州アマリロで育つ。父親のドリー・ファンク・シニアも名レスラーだ。65年にプロレスデビュー。70年初来日、翌71年には兄とタッグを組み、ジャイアント馬場、アントニオ猪木を破った。

「お父さんも馬場さんと親しく、(72年の)全日本プロレスの旗揚げ、そして外国人レスラーの招聘(しょうへい)に全面協力してくれた。馬場さんはファンク一家への恩義を忘れなかった」(百田さん)

 テリーは試合で来日するだけでなくレスラー指導も。

「テリーは技を教える時、技をガッチリかけてきた。痛いか、この痛さを覚えておけ、と言われました。体で覚えたおかげで技の威力が分かり、相手からその技をかけられそうになった時にはすぐブロックできた。実戦的でした」(百田さん)

 得意技はスピニング・トーホールド。足の関節技だ。

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