コロナ後の街づくりには何が求められているか――大松 敦(日建設計社長)【佐藤優の頂上対決】

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さいたま新都心や東京駅八重洲口、そして渋谷駅など、都市中心部の駅周辺一体開発に定評のある日建設計。だがコロナ禍で会社の地方移転やリモートワークの定着などが進み、都心のビルやターミナル駅の役割は変わりつつある。今後、都市はどうなっていくのか。これからの都市と建物のデザインを考える。

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佐藤 私は鈴木宗男事件に連座して逮捕され、東京拘置所に512日間勾留されました。釈放された後は埼玉県与野の母の元に身を寄せたのですが、当時は毎日、そこから歩いてさいたま新都心まで行き、けやきひろばのスターバックスコーヒーで本を読んでいました。

大松 そうでしたね、ご著作で知りました。

佐藤 そのさいたま新都心は、日建設計では大松さんが中心となって計画されたそうですね。

大松 あそこは私にとって一つの原点です。関わり始めたのは1990年からで、当時は東京臨海副都心や横浜のみなとみらい、千葉の幕張新都心などが注目されていて、規模からすればさほど目立たない案件でした。だからなのか「君が中心になって担当しなさい」と、30歳になったばかりの私にお鉢が回ってきた。このため、かなりのびのびとやらせていただいた記憶があります。

佐藤 とても居心地の良い場所で、1日数時間は本を読んでいました。あの街ができたことで、埼玉県の人流も市民の意識も、大きく変化しました。さらに言えば、埼玉県の位置付け自体を変えたと思います。

大松 もともと「東京一極集中の是正」という発想から始まり、1989年に政府系17機関の移転先としてJR東日本の大宮操車場跡地が指定されたんですね。国はそれを「開かれた官庁街」にしたいというわけです。一方、埼玉県は人が集まる場所が欲しかった。そこで合同庁舎やさいたまスーパーアリーナを造り、他にも簡保の施設や民間企業のビルを組み合わせてあの街を計画しました。それらの2階部分を歩行者デッキでつなぎ、またさまざまな性格の広場空間を設けました。

佐藤 さいたま市に栄東中学という私立の進学校がありますが、入試をアリーナで行っていました。首都圏の中学受験の口火を切る形で1月にやるため、模擬試験代わりに大勢が受けにくるんですね。すると自校の校舎だけでは間に合わない。

大松 へぇ、入試にも利用されていたんですか。

佐藤 だから栄東中学にも大きく貢献していた(笑)。それから1駅手前の与野駅前には、いまタワーマンションが2棟立っています。一昔前なら考えられなかったですね。さいたま新都心ができたことで、大宮や浦和は住みたい街の上位に入るようになりましたし、周辺の不動産価格もかなり上がったと思います。

大松 弊社に入社する新人から「さいたま新都心の近くで育ちました」とやや誇らしげに言われることがありました。ちょっとうれしかったですね。

佐藤 一帯は、大宮操車場跡地だけでなく工場跡地など民間が所有する土地もありましたから、利害調整は大変だったでしょう。

大松 そうですね。机上で考えるだけでなく、いろいろな方々との協議や合意形成が必要でした。どんな会議体を作り、誰に入ってもらえばうまく進むのか、計画や設計とともに考えていかなければならない。それは「小さな政治」と言っていいかもしれません。

佐藤 電車のアクセスも、さいたま新都心駅と北与野駅があり、利便性が高いですね。新都心駅には京浜東北線と、宇都宮線、高崎線に直通する上野東京ラインが通っていて東京駅へ向かい、一方の埼京線の北与野駅からは池袋駅、新宿駅に向かえる。

大松 中央省庁の関東地方を管轄する地方支部局がほとんどやってきましたから、大勢が通勤してきますし、関東各地から多くの来訪者があります。アクセスは非常に大切でした。

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