天才・堀内恒夫がV9時代の日本シリーズ“奇策合戦”を明かす

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3千万円がドラフトで水泡

 阪急電鉄そして宝塚歌劇団の生みの親で知られる小林一三は山梨の出身だ。その縁で、山梨県代表が甲子園に行くと、練習に西宮球場サブグラウンドが使えた。そして試合後は宝塚劇場へ。

「高校1年でラインダンスを見たら、そりゃ衝撃を受けるよね。高校を出たら早くプロ野球に入ろうと思ったもの」

 プロ野球で活躍すれば、華やかな世界が遠いものではなくなる。10代なりに堀内は立身出世の志を熱く触発された。すると、

「甲子園から帰ったら、阪急の丸尾千年次スカウトが来た。『すぐ入れ、契約金を3千万円あげるからすぐ来なさい』って。親父に『高校は卒業しろ』と言われて行かなかったけどね。

 2年になったら、西鉄、大洋……、5球団に誘われた。巨人は7球団目に来た」

 2年、3年と山梨県では代表になったが、埼玉県代表と戦う西関東大会で敗れ、甲子園には出場できなかった。卒業時、プロ野球ではドラフト制度が採用され、堀内は巨人の1位指名を受け、入団する。契約金は上限の1千万円。

「菅沼のオヤジが大したものだと思うのはね、卒業する時、主力の三人を集めて言ったんです。3番を打っていた篠原元には『堀内の代わりに早稲田に行け。教師になって甲府商の監督になれ』。4番の僕には『巨人に行って将来は巨人の監督になりなさい。野球殿堂にも入れるだろう』。5番の古屋英雄には『大学から社会人に行って、監督をやれ』と。古屋は明治大から日本鋼管に行って監督になった。三人ともオヤジの言ったとおりになった」

大きめの帽子で球威をアピール

 さらに、新人の時、堀内といえば投げた直後に帽子のひさしが斜めに曲がるのが話題になった。少年たちはみな、投げた後、帽子が曲がるまねをした。私もその一人だった。

「あれを考えたのも菅沼のオヤジです。少し大きめの帽子をかぶって、球威をアピールしろと」

 1軍デビューの時、緊張をほぐすため、堀内は投球練習の1球目をバックネットにぶつけた。これも菅沼の助言だった。もし当初の希望どおり法政二高に進学していたら、菅沼との出会いはなかった。人生、何が幸いするかわからない。

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