巨人V9から半世紀 当時の主力・柴田勲が語る「年俸の裏側」と「伝説のサヨナラ3ラン」

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大胆に打順をチェンジ

 V9巨人は、レギュラーを安閑とさせないことで有名だった。長嶋茂雄にさえ、才能ある新人を採って勝負させた。日本一の捕手と謳われた森昌彦はベテランになっても競わされた。

「日本のモーリー・ウィルス」どころか、「赤い手袋」の代名詞でプロ野球を代表する人気選手になった柴田も例外ではなかった。

 V3を果たした67年に18本塁打を打つと、68年のシーズン中に川上監督から、

「右一本で5番を打ってくれ」

 と通告された。

(5番はいいけれど、左でも打ちたい)

 と柴田は思ったが、川上監督には言えなかった。この頃の巨人は他球団から主力打者を次々に獲得して5番に据えていたが、シーズンを通して活躍できなかった。ONの後を打つ5番打者の不在は巨人の弱点といわれた。そこで柴田に白羽の矢が立った。明治大で六大学通算最多安打記録を塗り替えて入団した高田繁に1番を託せるめどが立ったことも決断の一因だったろう。川上はプロ野球ファンの間にすっかり定着した「1番・柴田」の打順を大胆にも変えた。

 この年、柴田は1番で58試合、5番で31試合に先発している。日本シリーズでは、初戦と2戦目が5番国松彰、6番柴田だったが、2戦目に柴田がホームランを打つと3戦目からはずっと柴田が5番。第3戦、6戦と計3本のホームランを打った。

「その年の公式戦では右で26本のホームランを打ちました。打点も86。川上監督の期待に十分応えられたと思います。それで、すごく楽しみにして契約更改に行ったんです」

「やってられないと思った」

 柴田が表情を曇らせた。大幅アップを期待して臨んだ席で、球団代表からの提示は絶望的な数字だった。

「現状維持でした。『えっ、何でですか? 監督に言われたとおり右一本で5番を打った、十分な数字を残したのになぜ?』。でも代表は、『確かにホームランと打点は増えたけど、三振が36も増えた、盗塁は半分に減った、打率も3分下がった』と言うんです。もうやってられないと思った」

 年俸調停に持ち込もうかとさえ思った。キャンプ直前まで柴田だけが契約を更改しなかった。すると、川上監督の自宅に呼ばれた。

「『ごねてるらしいな。オレが球団と交渉してやる』と言われたので、監督に任せたんです。そしたら、『オールスターまでに3割を打ったら、好きなだけ上げてくれるそうだ』ときた」

 それまでの最高は.287。他の6季中5季は2割5分台だから、3割は高すぎる目標だった。シーズン早々で3割の望みは断たれ、目標を失った。

「そのシーズン(69年)はちょっとふてくされたというか、ひどい成績でした」

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