母親に無視された「お父さんに会いたい」の気持ち 幼少期の“連れ去り”が40歳男性にどんな悪影響を与えたか

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母に首をつかまれ…

 彼が中学に入るころには離婚が成立していた。母は、「あなたたちにはもうおとうさんがいないの。3人でやっていこうね」と言った。なんて冷たいことを言うのだろうと、彼は大きな衝撃を受けた。

「新しいおとうさんがほしいよね、と母は言ったんです。『絶対にいらない。僕らのおとうさんに会いたい』と僕は初めて母に反抗しました。母は僕を睨みつけた。『おとうさんに会わせて』と思い切って言ったら、母にいきなり首根っこをつかまれて『二度と言っちゃだめよ、そのことは』と恐ろしい口調で言われました。僕、そのころ、あまり背も高くなくて小さかったんです。母は大柄な女性だったから、のしかかられて怖かった 」

 あとから判明したことだが、母には恋人がいた。再婚しようと思っていたが、息子の反対にあってあきらめた。だが関係は続いており、母は子どもたちを置いてたびたび恋人のもとへ行っていたのだ。

「それがわかったとき、大人はずるい、というか母への憎しみがわき起こりました。当時の僕は、妹のことが心配でたまらなかった。それは本来、母親がすべき心配のはずなのに。僕らを探してくれない父にも怒りがあった」

父とようやくの再会

 それでも父への思いは消えなかった。中学3年生の秋、彼は父の働く工場へ行った。会えるまで待つつもりだった。父が小走りに彼の元へ来たときの顔を、忘れることはないと亮輔さんは少し涙ぐみながら言った。

「会いたかったよ、と父は僕を抱きしめたんです。そんなことされたのは初めてだった。父は早退して時間を作ってくれた。結局、僕らを父に会わせようとしなかったのは母なんです。母は父が暴力をふるうとまで嘘をついていた。僕らは母の所有物じゃない。父には『会いたかった。手紙を置いてきたんだよ』と伝えました。父は、自分も会いたかったし、連絡をとりたかったけど、家裁の調停でさらに揉めることになる、そうしたらもっときみたちを苦しめることになるから我慢していた、と。大人の事情はわからない。でも僕と妹はおとうさんが好きなんだと言ったら、父が号泣したんです」

 その後、父は家裁に手続きをとり、亮輔さんと妹の親権を奪い返した。母は意外にもあっさり子どもたちを手放したという。

「養育費だのひとり親家庭への補助金だのがほしかっただけなんじゃないか。そう思ったこともあります。僕と妹はまた、昔住んでいた家に戻りました。県をまたいでしまったので受験は大変だったけど、なんとか県立高校に滑り込みました」

 再会してともに暮らすようになった父は、以前と違って言葉を出し惜しみしなかった。父もひょっとしたら母にスポイルされていたのではないかと思ったこともあったそうだ。

「父と妹と3人で暮らしていた高校時代がいちばん幸せだったような気がします。父は僕に大学進学を勧めました。僕は父の働いている工場で一緒に働いてもいいと思っていたけど、父は頑なに進学しろって。親を越えるのが子の務めだなんて言ってましたね。がんばって勉強しました」

 その結果、ある有名大学に合格したが、自宅からは通えず、彼は都内でひとり暮らすことになった。父は全面的に援助すると言ってくれたが、彼は生活費は自分で稼ぐからとアルバイトにも精を出した。

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