逸見政孝さん「がん告白」会見から30年 長男・太郎さんの告白「ザ・昭和の頑固オヤジでした」、13億円と報じられた大豪邸その後

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“ザ・昭和”の頑固オヤジ

――人気アナの死は、日テレやフジなど複数の局が追悼番組を放送するなど、これもまた異例のことだった。

太郎:フリーになって5年、一気に売れたからでしょうね。

――七三分けの髪型、黒縁めがねでニュースを読む真面目一方に見えた逸見アナだったが、バラエティー番組でひょうきんな一面を出すようになって人気となった。

太郎:バラエティ番組に出るようになった時には、「そういう人だったの?」とビックリしましたよ。

――「夜も一生けんめい。」では、決して上手いとは言えない歌も披露した。

太郎:あれは演じている部分もあったと思いますよ。僕らが子供の頃、「オールスター家族対抗歌合戦」(フジ)に逸見家として出場し、父は大川栄策さんの歌を披露して優勝したこともありましたからね。ポップな歌は得意じゃなかったとは思いますけど、敢えて下手に歌うという関西人としてのサービス精神が出たんだと思います。

――家庭ではどんな父親でしたか。

太郎:家では冗談も言わず、笑ったところも見たことがないほどでした。“ザ・昭和”の頑固オヤジでしたよ。今の時代には信じられないかもしれませんが、男が稼いで女は家を守れというタイプでしたから、母がパートに出たいと言っても「俺より稼げるのか」と言って却下されていました。僕ら子供たちも叱られることはないけれど、褒められるわけでもない。何を考えているのかわからない、恐いオヤジでした。

――だが、世間では人気有名人の子供と見られた。

亡くなる前年に豪邸建築

太郎:逸見の息子だと色眼鏡で見られるのが本当にイヤでした。母に学校や他人の迷惑になるようなことをするなと言われて。他の子と同じことをしても、僕の場合は逸見の息子だからとニュースになると。そうでない環境を求めて、15歳でイギリスに留学したんです。英語のできない父を超えてやろうとも考えていました。

――渡英したのは88年5月だった。この前月に父はフリーアナに転向した。

太郎:収入もすごかったんでしょうね。僕も散々お世話になりましたし、新たに建てた家は豪邸と報じられました。

――92年に高級住宅地に竣工した自宅は敷地131坪、レンガ造りの鉄筋3階建て7LDKで、総建築費13億円と報じられた。

太郎:稼いでも使う時間がなかったんでしょうね。唯一の趣味と言えるのがゴルフでした。しかし、ゴルフ場に行くのに、他人の車には乗らない。ブレーキのタイミングや曲がり方が気になるからだそうです。そのためツーシーターのスポーツカーを自分で運転して行くわけですから、疲れるだけですよ。それで“男の夢”である家を建てたものの、その翌年に亡くなったわけです。

――「週刊新潮」(2001年7月19日号)では、未亡人の晴恵さんが取材に答えている。

《「8年前にパパが亡くなった時は家を建てたばかりでしたので、私たちには12億7000万円という途方もない借金が残ってしまったんです」》

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