奔放な名馬・ハイセイコーが人間を信じるようになった感動エピソード 「瀕死の状態をスタッフで介抱した翌日に変化が」(小林信也)

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「さらばハイセイコー」のフレーズを聞けば、一定以上の世代ならあのメロディーを思い浮かべるだろう。引退直後に発売されたレコード「さらばハイセイコー」はオリコン最高4位を記録した。それほど国民的知名度を誇る人気馬だった。

 光の当たらない地方競馬(大井)で6連勝した後、中央競馬に移籍。「地方競馬の怪物」は、初戦の弥生賞から中山競馬場に12万3千人もの大観衆を集めた。中央でも4連勝を飾り、人気は沸騰する。ダービーは3着と敗れて不敗神話は崩れ、それから1年は勝利から遠ざかるが、常に接戦を演じ、ファンを沸かせた。ハイセイコーには、人を引きつける魅力があった。

「厩舎(きゅうしゃ)に来た時は大変だった。ヤンチャでね。なかなか背中に跨らせなかった」

 北海道の新冠(にいかっぷ)で生まれたハイセイコーが大井競馬の伊藤厩舎に来た直後の話を、厩舎所属の騎手だった高橋三郎が話してくれた。

「あの頃は今みたいにトレセンとかなかったからね」

 生まれた後、競走馬としての基礎訓練を施し、馬が競走馬としての使命に慣れさせる過程を「馴致(じゅんち)」という。馬具の装着に慣れさせ、人を乗せることに慣れさせる。やがてレースの基本を身に付ける「育成」に移る。1970年代に入ってトレセンで行われるようになったが、ハイセイコーが生まれた70年はまだ厩舎がそれを担っていた。馴致や育成は騎手の務めだった。

「背中に乗るまでに10日以上はかかったね。人が傍に行くだけで嫌がって、寄せ付けなかったもの。だから最初は外じゃなくて馬房の中でやった。あそこは自分の部屋だとわかっているから少しは落ち着く。でも狭いところだからこっちは余計に怖かった。体が大きいのと、馬力があったからね。3人で押さえて、何とか跨ってさ。ただ背中の上にお腹を乗っけたくらいですぐ降りないと、振り落とされる。それを朝晩やった。ようやく跨がらせてくれたら、馬房の中で小さく回って、それから外に出して、最初は歩くだけだったね」

 突然、ハイセイコーが暴れ出し、クルクルと回り始めたこともあった。

「こっちは目まいがした。でもそうやって慣れて、鞍を載せて乗れるようになった」

 高橋も必死だった。来た時からひときわ大きく、誰もが大器と口をそろえた。その馬を一人前にしなければ騎手として認められない。

「普通に走るまでに1カ月以上かかったねえ。嫌だと思ったらピタッと止まって動かない。車がエンスト起こしたみたいにね。ハイセイコーには本当にみんなが苦労した」

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