「どうする家康」の史実乖離がヒドすぎる ワースト5を専門家が解説「家康夫婦は不仲だったのに…」「研究で否定されている見解ばかり」

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明確に史実に反する展開

 では、史実の築山殿はなにをしたか。天正3年(1575)、岡崎の家臣たちが武田勝頼を岡崎城に迎え入れようとした大岡弥四郎事件が未然に発覚した。これは徳川家を滅ぼしかねなかった一大事であり、第20回「岡崎クーデター」(5月28日放送)では、築山殿はその被害者とされたが、実際には、首謀者の一人だったようだ(「岡崎東泉記」「石川正西聞見集」)。

「どうする家康」の時代考証を務める平山優氏も、

〈大岡弥四郎事件とは、岡崎衆の中核と築山殿との謀議であり、築山殿の積極性が看取できるのである〉

 と記している(『徳川家康と武田勝頼』)。

 これでは家康に妻子をかばう余地はない。かつては、家康は信長の命で妻子を死なせたと考えられていたが、近年では、家康みずからの判断で二人を処断したという見解で、研究者たちは一致している。

 ところがドラマでは、家康は最愛の妻子を信長の圧力によって殺さざるをえなくなった、ということにされた。この史実を無視した流れは、第26回「ぶらり富士遊覧」(7月9日放送)のラストシーンにおける、家康の「信長を殺す」という言葉にまでつながった。

 その心中は、第27回「安土城の決闘」(7月16日放送)で酒井忠次(大森南朋)がこう解き明かした。「信長を討つ。この3年、その一事のみを支えに、辛うじてお心を保ってこられたのだろう」。妻子の敵をとるという話だったのである。

 だが、史実の家康に信長を討つ動機はない。さらにいえば、ドラマの家康は大勢の前で「信長を討つ」と公言し、準備をさせ、別の矛盾も生じた。これでは謀反が事前に発覚しかねない。実際に信長を討った明智光秀が、決意を家臣に告げたのは前日で、しかも4、5人にしか告げていない。

私怨で行動する武将たち

 同じ第27回で、家康は策を講じた。「信長を討つ」にあたり邪魔になる信長の重臣たちだが、羽柴秀吉(ムロツヨシ)は中国、柴田勝家(吉原光夫)は北陸にいるなど問題ないものの、明智光秀(酒向芳)は畿内にいる。だが、ちょうど安土城(滋賀県近江八幡市)で家康の饗応役を務めているので、光秀が淀のコイを出したとき、家康はわざと臭いを気にしてみせた。

 信長が「臭うならやめとけ」と言うと、光秀は「臭うはずがない」と申し開きをし、あとは家康の狙いどおりだった。信長は激高して膳をひっくり返し、光秀を何度も殴ったのである。

 結果、光秀は饗応役をクビになって、秀吉の毛利攻めの手伝いを命じられたが、光秀は信長と家康への恨み骨髄となり、天正10年(1582)6月2日未明、本能寺の変を起こす――という流れだった。

 それにしても家康の策はナンセンスだが、こうした私怨を本能寺の変の原因として描くのもまた、ナンセンスきわまりない。

 江戸時代に書かれ、信頼性の低い「川角太閤記」には、光秀が家康一行のために準備した生魚の悪臭が漂い、信長が激怒したという逸話がある。だが、光秀が饗応に失敗したという話は、信頼できる史料には一切書かれていない。

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