対米開戦は不可避ではなかった――78回目の終戦記念日に歴史家たちが考える「歴史のif」

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 今振り返ってみれば、国家の自殺的決断ともいえる「対米開戦」。無謀ともいえるその判断は、アメリカの「ハル・ノート」を受けて、昭和16年(1941年)12月1日、昭和天皇も交えた御前会議で下されたが、そこまでに至るまで、伏線となるさまざまなファクターが存在していた。

 あのような失敗を繰り返さないためにも、そこに至るプロセスを振り返ることは、80年たった今も必要なことかもしれない。『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)の「第九章 対米開戦の『引き返し不能点(ポイント・オブ・ノー・リターン)』はいつか」では、対米戦が不可避だったかどうかについて、日本近現代史の泰斗たちが質疑応答形式で答えている。

 ここで紹介するのは、本書で「対米戦争はなぜ回避できなかったのか」を論じた森山優氏、「真珠湾攻撃前後の英米関係はいかに形成されたのか」の赤木完爾氏、「昭和天皇は戦争にどう関わっていたか」の山田朗氏、「大東亜戦争の『遺産』はなにか」の波多野澄雄氏、それぞれの見解である。

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最悪のタイミングで実現した南部仏印――森山 優(静岡県立大学国際関係学部教授)

 アメリカの対日全面禁輸後でしたら、日本が戦争を決めたわけですから、決めなければいいという単純な話です。臥薪嘗胆しかないでしょう。ハル・ノートは条件ではなく原則の表明ですから、撤兵をやるやると言って放置しておくという道はあると思われます。

 アメリカが手を出したくても、アメリカの世論が日本に先制攻撃をかけることを認めるか。孤立主義の共和党と国論が割れていたので、できないでしょう。そんなことはイラク戦争(2003年)までなかったわけです。あの国を先制攻撃でまとめていくのは、まず無理な話です。

 では、全面禁輸以前だったらどうでしょう。1941年初頭のタイと仏印の国境紛争調停の時に、南部仏印進駐を要求する陸海軍を松岡洋右(ようすけ)外相が巧みにはぐらかし、結局、煙にまいてヨーロッパに行ってしまったことがあります。まさに陸海軍を引きずり回したわけです。

 もし、この段階で日本が南部仏印に進駐したらどうなったでしょうか。アメリカもイギリスも準備不足で対応できなかったと思います。もちろんアメリカは単独行動主義ですから、対日全面禁輸をやる可能性はあります。しかし、禁輸されても、まだ日本側には南方攻略作戦の準備も覚悟もないわけです。つまり、41年春に進駐したら、戦争にならなかったかもしれません。

 これは、本当に皮肉ですね。力と力の関係だけを考えると、可能性としてはこの時。もっと前にもあります。1940年5月~6月、ドイツの西方攻勢のときです。フランスとオランダが降伏した時に、一気に蘭印を占領したら英米は全く動けなかっただろうと、後にハルは回想しています。ただし、日本はそんな侵略戦争の決意も準備もありませんでした。

 ですから、現在の目から見ると当たり前に思われる、南部仏印に進駐したから対日全面禁輸をくらって、石油確保のための戦争に乗り出した、こういう因果関係が成立したのは、実はあの時だけだったのではないか。それが前のほうにずれたり、後ろのほうにずれたりしたら、おそらくこの流れはできなかっただろう。非常に悪いタイミングで歯車が、ガチッと噛み合って回り出してしまった、だから止めようがなかった。このように考えております。

 繰り返しになりますが、日本らしく非(避)決定を繰り返せばよかった(森山「避決定を貫徹できなかった日本」細谷雄一編著『世界史としての「大東亜戦争」』PHP新書、2022年)。

 リーダーシップがないということは、逆に大失敗するような選択をしないということでもあります。みんなが足をひっぱるから、大それた決定ができない。にもかかわらず、なぜ対米戦のような大それた決定ができたのか、という話になります。だったら決定しなければいい。

 そして、あまり有利ではない状況で、辛抱強く撤退しながら戦い続ける、それをやれる能力がなかったとは言えない。田中宏巳さんの表現によれば、復員と引き揚げに示された、ねばり強く苦境に立ち向かう精神力、最後に自主自立を達成する忍耐力です。これがあれば、臥薪嘗胆で撤退戦をやり抜くことは可能だったと思います。

イギリスのみを攻撃していれば別の展望もあった――赤木完爾(慶應義塾大学名誉教授)

 陸士34期の逸材、堀場一雄大佐の言として伝えられる「満洲事変は長城の山海関(さんかいかん)を越えたるが故に支那事変に移行し、支那事変は仏印国境鎮南関(ちんなんかん)を越えたるが故に大東亜戦争に発展した」という述懐があります。満洲事変以後、北支工作が支那事変を誘発し、北部仏印進駐が大東亜戦争の扉を開いたという一連の事態の把握は説得的です。

 問題は、それでは日本として満洲事変の完成に集中し、長城以南に進出することを自制できたかどうかにあります。しかし日米間の争点は、アメリカ側にあっては、中国の統一と独立という理念であり、具体的な権益などの利害対立ではありません。理念をめぐる対立は妥協を困難にします。

 ハル・ノートが提示したのは、日露戦争後の日本の大陸コミットメントの全面否定に他なりません。したがって、日本側が太平洋戦争を避けるためには、全面的な屈服しか方途はなかったと考えてよいと思われます。

 仮に、大陸経営からの全面的撤退がなされれば、戦争回避はなしえたと思われますが、当時の日本において大陸へのコミットメントは、広い国民的な支持を得ていました。加えて日本の経済が日満支の円環で比較的順調に動いている以上、革命的な政策の転換はどこまでも難しかったと思われます。

 アメリカ側にあっては日米交渉の過程で、一時期「暫定協定」(事態を1941年7月以前に戻す)が検討されましたが、中国とイギリスが激しく反対しました。アメリカ陸海軍首脳は、戦備充実の時間を稼ぐために「暫定協定」を支持していました。

 英米間で形をなしつつあったドイツ打倒最優先の戦略について、ローズヴェルト大統領はその戦略の意味を十分理解していましたが、軍部の主張を容れることが「対日宥和」であると非難するかもしれないアメリカ世論への懸念から、「暫定協定」は選択されませんでした。ハル・ノートは11月26日に日本に提示されました。

 1941年のアメリカにおける世論調査によれば、アメリカは「欧州での戦争に関して参戦することを除き、イギリスに対し可能なあらゆる援助を行うことを支持する」という意見が6割から7割を占めますが、「ドイツとイタリアに対する戦争に、アメリカが参戦すべきかどうかの総選挙が行われた場合、参戦することに賛成」が2割から3割の間と少数派となります。「アメリカはドイツに参戦すべきである」は1割から2割の間に過ぎません。

 ただし「長期的方針としてアメリカは次のうちどちらをとるべきか」という問いに対しては、「戦争の圏外に立つ」が3割前後であるのに対し、「戦争になるリスクを冒してもイギリスを援助する」が6割前後と逆転します。これに対し「日本の武力進出を許すより日本と戦争になるリスクを取る」が3月には5割程度であったものが11月には、7割近くにも増えていました。

 こうしてみると戦略的合理性に基づいて対独戦争参戦を優先することには、きわめて世論の合意が得られにくいのに対して、日本に対しては強硬策をとって戦争になっても国内的支持は得られやすいという判断はあったように思われます。しかもアメリカ議会において、1941年でしっかりした合意が成立していたのは、戦争に至らない範囲でイギリスを援助することだけでした。

 次に指摘しておきたいのは、日米戦争回避という論点において、日本が開戦時の軍事作戦をイギリスなどヨーロッパ勢力に限定し、アメリカ領への攻撃をすることなく開戦した場合の展望です。

 日本の開戦前の軍事作戦の検討の中で、国家の戦略的大目標は南方における石油資源の確保でしたが、陸軍が仏印からマレーを経て蘭領東インドにいたる左回りの進撃路を主張し、海軍がフィリピンを経由する右回りの進撃路を主張しました。

 南方への進撃の最中に、進撃路の左翼側をアメリカ太平洋艦隊が脅かす事態となったら、海軍は総力を挙げてそれに対処せざるを得ません。そうなると南方における資源確保の大目的の達成が難しくなるとの見通しから、結局左右両方向からの進撃を行い、さらに南方作戦に不可欠の支作戦としても真珠湾攻撃を位置づけることになります。

 結果的に12月7日の真珠湾攻撃から、12月11日のヒトラーの対米宣戦布告までの4日間は、アメリカは太平洋においてイギリス帝国と戦時同盟関係を組み、日本との戦争状態に入っていたに過ぎません。

 真珠湾攻撃の直前、12月1日にローズヴェルト大統領はイギリスに対して、極東でイギリス植民地が日本に攻撃された場合には参戦すると約束していました。その約束は果たされたのですが、日本が左回りの進撃路をとって、イギリスのみを攻撃していた場合、別の展望が開けた可能性はわずかではありますが、あったように思われます。

三国同盟と仏印進駐が対米開戦を不可避にした――山田 朗(明治大学文学部教授)

 やはり非常に大きなポイントとして、1940年9月の三国同盟の締結と、ほぼ同時に行われた北部仏印進駐です。ここに踏み込んでしまったということが、そのあとの対英米戦争を不可避にしてしまったと思います。

 三国同盟を結んだということは、戦争をやっている当事者と同盟を結んだというわけですから、ドイツと戦っているイギリスとの関係が良くなるわけがありません。ドイツが勝つということを前提としてこういう同盟を結んだ。しかし非常に危険なことだったと思います。いくら当時ドイツの調子が良かったとしても、もうちょっとここは、ものを見なければいけなかった。だけど日本側は待てなかったのです。

 なぜかというと、もし本当にドイツが勝ってしまったら、ドイツはもう同盟を結ぶ必要は無いわけですから、そうなるとアジアにおけるヨーロッパの植民地、イギリス、フランス、オランダの植民地は、ドイツの総取りになってしまいます。

 第2次世界大戦は、正に植民地の再分割戦として行われているわけですから、ドイツが勝てば当然現在のインドからビルマ、マレーシア、シンガポール、仏印、インドネシアが全部ドイツ領になってしまう。日本はどこかでドイツの手助けをして、戦後の講和会議でドイツ側に立って発言権を得たいということになり、待てなかったのです。

 目の前に大きな獲物がぶら下がっていて、そこを冷静に見抜けなかった。ドイツの勢いに幻惑されてしまい三国同盟を結び、しかも仏印に進駐してフランス領に踏み込んでしまった。

 これは引き返すことができない大きなポイントで、実際このあと日米交渉があるのですが、ドイツと同盟を結んでしまった以上、圧力として使える反面、戦争が拡大した時には、日本もいや応なく世界戦争に突入せざるを得ないわけでして、やはりこの判断は非常にまずかった。

 ですから、もう引き返すことができない一つの点としては、1940年9月の三国同盟締結、仏印進駐によって、日本はついに対英米戦争への道に踏み込んだと言っていいのではないかと思います。

陸軍と海軍の「惰性」によって対米開戦は不可避になった――波多野澄雄(筑波大学名誉教授)

 どの時点がターニングポイントであったか、いくつかの分岐点を指摘できます。

 その第一は1938年の秋です。当時の第1次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が、日本のめざす東亜の新しい秩序は英米のそれとは原理的に相容れないものだと公式に発言したこと(東亜新秩序声明)に対して、アメリカやイギリスが強く反発したことがあります。

 つまり、日本が望ましいと考える東アジアの国際秩序(東亜新秩序)は英米が考える普遍的な国際秩序とは原則的に相反していることが改めて明らかになったわけです。しかし、そこに開戦の決定的な原因があるのかと言うと、必ずしもそうではない。現実の東亜新秩序の構想は、とくにアメリカに対する経済的な依存によって成り立っていたからです。

 第二の分岐点が1940年9月の日独伊三国同盟の締結です。三国同盟は確かに対米関係を悪化させましたが、対米開戦が必然的になったかというと、これも必ずしもそうではない。

 日本は、枢軸陣営の一員になり、決定的な対立に一歩近づいたとは言えるのですが、三国同盟の運用によっては開戦に至らざる道を選ぶこともできた。たとえば、ヨーロッパで独米戦争が始まっても、日本は自動的にドイツ側に立って参戦する義務はなかったのです。この時点でも、ヨーロッパ戦線と距離を置くことが可能でした。

 第三は、1941年6月の独ソ戦争の勃発です。それまで不可侵条約で結ばれていた独ソが戦争に突入します。これは世界の主要国が、枢軸陣営と連合国陣営とに二分されたという点で、決定的と言えますが、これによって対米戦争が必然的となったか、といえばそうは言えない。なぜなら、欧州戦局とアジアの戦局を切り離して、つまり、欧州大戦に「不介入」の姿勢を貫いて日中戦争の自力解決に専念するという道がありえたからです。

 第四は、1941年7月の南部仏印進駐です。東南アジアの戦略資源を求めて日本軍は北部仏印にあった軍隊を南部仏印に進駐させた。これには、アメリカが強く反発をして、石油輸出を止めたり、在米の日本資産を凍結したりするわけですが、これによって日本は「ジリ貧」に陥り、開戦を余儀なくされたという解釈は有力なものがあります。

 実際、南部仏印進駐後には陸海軍の中堅層には「対米戦を辞せず」という考え方が台頭してきます。ただ、私自身は、南部仏印進駐によって日米戦争が必然的になったとは思わないですね。

 石油に関してならば、例えば北樺太の油田開発とか、満洲の人造石油とか、いずれも期待薄とはいえ一応代替策が模索されていましたし、外交的手段によって東南アジアの資源地帯に進出するという選択肢もわずかに残されていたわけですから。

 結局、最後に何が決定的だったか。1941年4月から断続的に開催されていた日米交渉のなかに、開戦の可能性も、避戦の可能性もあったと思います。日米交渉は何のためにやっていたかといえば、行き詰まっていた日中戦争の解決をアメリカの仲介斡旋に頼ろうとしたことが原点です。

 蒋介石(しょうかいせき)政権(重慶政権)との直接交渉による解決をめざしていた日本は、その直接交渉の手段がなく、アメリカの仲介に期待したわけです。しかし、アメリカは単なる仲介者ではなく、仲介の条件を出してきたのです。それが、門戸開放・機会均等、三国同盟の実質的な無効化、汪兆銘(おうちょうめい)政権の解消、中国からの撤兵といった条件でした。

 その中には、応じられるものもありました。例えば門戸開放・機会均等という条件は、確かに日本は中国において経済的に門戸を閉鎖し、独占的利益を得ようとし、外国の貿易や投資を制限していました。しかし、これは妥協が可能だった。

 実際、日米交渉の最終段階では、東郷茂徳(しげのり)外相らが有力な財界人を集めて門戸開放について理解を求めるという場面もありました。三国同盟についても、米独戦争の場合に「自動参戦」ではなく「自主参戦」を選ぶことも可能でした。

 最後に残った譲れない条件は中国からの撤兵でした。とくに陸軍は、日露戦争以来日本が大陸に営々と築いてきた権益を捨て去ることはできない、と考えました。とりわけ華北を失うことは満洲国を失うことにもなるわけですので、それはできなかったのです。ですから華北駐兵が最後までネックになった、とみることもできます。

 最後の対米提案である「乙案」は、暫定協定案として提出されたのですが、東郷外相は、この「乙案」のねらいを、日中交渉と日米交渉をひとまず切り離し、撤兵問題は日中の直接交渉によって解決を図ることにおいていました。

 ただ、この暫定案をアメリカが受け容れ、蒋介石政権との直接交渉が実現したとしても、連合国陣営の一員としての立場を固めていた蒋介石政権が日本の和平条件を受け容れることはなかったでしょう。

 開戦の経緯を別の観点から振り返りますと、開戦が不可避となった大きな原因の一つは、海軍が最後の段階で開戦に賛成したことだと思います。1941年10月に東條英機内閣が成立した際に、嶋田繁太郎海相が最終的に対米開戦に賛同したことが決定的だったと思います。つまりアメリカと戦争するのであれば海軍に頼らざるを得ないわけですから。

 なぜ、嶋田海相のときに、それまで開戦に消極的だった海軍が賛同したのか。海軍という組織の歴史を考えてみますと、日露戦争以来、海軍はアメリカを第一の仮想敵として戦略を組み立て、毎年毎年、巨額の予算を獲得し軍備強化に努めてきたわけです。

 こうした海軍という組織が1941年の秋の段階で、対米戦争を回避するという決断ができたかというと、誰が海相や軍令部総長であってもできなかったと思います。もし、戦争回避を貫けば、何のために海軍は存在しているのか、ということになるわけで、海軍自体の存在の意味が問われることになる。

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