なぜ都会の人は「疎開先でイジメられた」のか 教科書に載らない“戦争中の田舎”のリアル

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戦時下でもコメを山盛り食べていた

 筆者が秋田県内で過ごしていた小学生だった頃の話である。社会科の自由研究の一環で、地元の老人に太平洋戦争中の暮らしについて話を聞いた時のことだ。「火垂るの墓」などのアニメで戦時中の暮らしぶりはイメージしていたから、きっと貧しい暮らしを送っていたのだろうと予想していた。

 ところが、想定外のコメントが返ってきたのである。老人は「俺は戦時中にそんな貧乏な生活はしていない!」と口走ったのだ。さらに、「確かに今のように何でも物があるわけではない。しかし、普通にコメは食べていたし、茶碗に山盛りのこともあった」と言うのである。子ども心にはいったい何を言っているのかわからず、話半分で聞き流したものの、今思い返すと、これも貴重な戦時中の証言であると感じずにはいられない。

 老人は、秋田県南のとある農村に大正時代に生まれた。10代の多感な時期を戦時下で過ごし、6人兄妹だった。一般的な農家であり、田畑を所有して自給自足の生活を行っていた。家族が食べるだけのコメは生産できたし、近所には備蓄した分を闇米として流している農家もあったらしい。そのため、昭和16年(1941)の開戦前とさほど変わらない普通の生活ができていたとしても、なんら不思議ではない。

 テレビや書籍で紹介される戦時下の暮らしや、教科書の記述は、都市部の人々の体験をもとに語られている。しかし、都市部と農村とでは令和の時代であってもライフスタイルが異なる。ましてや昭和20年(1945)のことだ。極端なほど違っていたと考えられる。一般的に知られるような、焼夷弾から逃げ回り、飢えに苦しむ戦争体験とは異なる暮らしがあった地域も存在するのだ。

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