キックの鬼・沢村忠が熱く語ったタイでの戦い テレビが作り上げたスターの実像(小林信也)

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“キックの鬼”と呼ばれた沢村忠を初めて見たのは55年前、1968年9月30日。その日、TBS系列で「キックボクシング」のレギュラー放送が始まった。月曜夜7時から30分間の中継は、ほぼ毎週、沢村忠のワンマンショーだった。

 多くの日本人はタイ式ボクシングの流れをくむキックボクシングに目を見張った。蹴りの強烈さは一目瞭然。まともに食らえば昏倒して当然に見えた。

 そんな中、沢村忠の繰り出すスピードあふれるハイキックの美しさ、アッと息をのむ飛び前蹴りは鮮烈だった。多くのファンが魅せられた。後に「真空飛び膝蹴り」が沢村の代名詞になるが、私が最初に心を躍らせたのは、「後ろ回し蹴り」だった。相手に背中を見せた次の瞬間クルッと体をひねり、ジャンプしながらスピードあふれる回し蹴りを相手の頭にヒットさせる。その正確さ、華麗さ、そしてどう見ても効くに違いない威力。それまで見たことのない芸術的な技だった。

 強い、負けない、最後は真空飛び膝蹴りで相手を仕留める、それが1週ごとに確立された沢村のスター像だが、沢村が唯一無二の沢村であり得たのは、「真空飛び膝蹴り」以前にその精悍な出で立ちと、華麗な美しさでファンを引きつける魅力を発散していたからではないだろうか。相手の蹴りやパンチを受けてダウンを喫しても、沢村はすさまじい形相で立ち上がり、簡単には屈しなかった。

リングネーム秘話

 沢村が「キックボクシング」の主役に選ばれるまでにはさまざまな経緯があった、という話は、リングアナウンサーの経歴を持つ放送作家・細田昌志が2020年に著した大作『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝』に詳しくつづられている。

 野口は当初、極真会館の大山倍達の高弟・中村忠をメインイベンターに想定していた。中村は64年にタイのルンピニースタジアムでムエタイ選手を2ラウンドKOした実績の持ち主。野口はキックボクシングの旗揚げを大山と組んで準備していた。ところが、二人の仲が怪しくなり、大山は中村を極真会館のニューヨーク支部に送ってしまった。そのため野口の興行には参加できなくなった。

 困った野口が抜てきしたのが、白羽秀樹というスター性抜群の名前を持つ青年だった。テレビ中継が始まる2年前。最初の興行を大阪で行う時の話だ。白羽は日大芸術学部の剛柔流空手道部出身。高校時代はバレーボール部でジャンプ力抜群。当時は大映に籍を置く俳優、芸名は城哲也。野口の説得を受けて、白羽は「仕事と割り切って出場に踏み切った」と細田は推察している。それから数年も、いや、人生をキックボクシングに捧げる形になろうとは想像していなかったに違いないという意味だ。ひとつだけ、白羽は野口に条件をつけた。細田が書いている。

〈名前が出てはまずい。城哲也では出られない。本名もまずい。剛柔流の関係者に知れては申し開きできない。別名を用意してほしい〉

 白羽のリングネームが決まった瞬間の話を、細田は野口の証言で書いている。

〈配布した資料の中で、メインイベントに出場する日本人選手の箇所が空欄になっていた。(中略)白羽秀樹の別名をどうするか、考えていなかったのだ。

「第八試合、メインイベント、日本……」と言った次の瞬間、野口修の口から飛び出したのが、「沢村 忠」という名前だった。

「何も考えずに出てきた。本当に口から出まかせで言ったんだよ」と晩年の野口修本人は言った。何度訊いても、繰り返しそう答えた〉

 それは、「中村 忠」への思いがこもった名前だった。

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